護国卿体制とは? わかりやすく解説

護国卿体制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 04:21 UTC 版)

清教徒革命」の記事における「護国卿体制」の解説

1653年12月16日成立し元首である護国卿内閣にあたる国務会議、そして議会三者均衡めざしていた護国卿体制は、独裁制とは性格異にしていた。護国卿権力は『統治章典』によって制限され立法権は州選出議員によって運営される議会留保された。しかしこの制度はすぐに破綻をきたし、反乱分子抑えるために強権的ならざるを得なかった。 クロムウェル独裁者たることを望んでおらず、合意による国政運営目指していたといわれるが、国王派から平等派第五王国派まで包含していたイングランドにあって合意などもとより不可能な状況にあった反革命勢力1654年9月3日召集され第一議会選出され政府支配道具として使われ軍隊削減求めた革命勢力たる軍と保守化する議会の間に「合意」を引き出せるはずもなく、クロムウェルはどちらにつくか逡巡した後議会の解散1655年1月22日)を選択せざるをえなかった。各地平等派国王派反乱相次いでおり、軍縮できる状況になかったためである。また、これら反乱分子抑えるため、軍政監設置など独裁的行政手段訴えなければならなくなってきていた。 こうして解散され議会だったが、財政逼迫クロムウェル変節よぎなくさせた。「議会同意なき課税無効」という伝統がすでにイングランド成立しており、これに基づいて議会を再召集する以外になかった。1656年9月17日開かれた第二議会は、議員資格めぐって混乱があったもののどうにか開かれた議会保守化の傾向促進させようとし、1657年2月統治章典修正案議会提出され、『謙虚な請願と勧告』と名付けられ修正案は軍幹部反対に遭いながらも3月可決クロムウェル王の称号贈り上院復活求めるなどステュアート朝時代政治体制戻そう腐心したクロムウェル王の称号以外の部分おおむね受諾した5月25日)が、これが王政復古への道を決定づけたとも指摘されている。

※この「護国卿体制」の解説は、「清教徒革命」の解説の一部です。
「護国卿体制」を含む「清教徒革命」の記事については、「清教徒革命」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「護国卿体制」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「護国卿体制」の関連用語

護国卿体制のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



護国卿体制のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの清教徒革命 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS