中華電影設立まで
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1939年、3月に陸軍は長政に日本軍支配地域の映画配給会社の日本側代表を依頼する。日独合作、日中合作映画を製作し配給してきた実績があり、中国語に堪能で、各方面に人脈があったため選ばれたとされる。 長政が大陸に渡る決心をしたのは幾つかの説があり、彼自身は中国との友好の掛け橋となりたいと説明している。また父の死も要因であるとする説もある。また、日独満の協定によりドイツ映画の配給について満州国が独占権を握ったため、これに対抗しようとしたとする説もある。ただ、彼の信条である「中国と日本の映画による友好」の立場で上海にいる以上軍の圧力は避けられず、また中国人からも敵視されるのは覚悟の上での大陸入りといえる。 1939年6月27日に、中華電影股份有限公司(中華電影)が日中合弁で設立されると専務董事の長政は本社を共同租界に置き、映画製作については日本人は入れないとして中国人のプロデューサー張善琨を全面的に信用して彼をトップに据える。
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