革命派への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 04:35 UTC 版)
当初は旧学を学び童試にも及第したが、15歳の時に香港へ移り、工場労働者として働きながら夜学で英語を学んだ。1902年(光緒28年)にアメリカへ留学し、音楽機器に関する専門学校に入学する。このとき、サンフランシスコの致公堂に加入し、堂の長である黄三穂の紹介で『大同日報』の記者になった。1904年夏、孫文(孫中山)がサンフランシスコを訪問した際に、馬超俊は黄の紹介で孫と対面し、以後、革命派として活動するようになる。 1905年5月、馬超俊は孫文を追って日本に渡り、同年秋に明治大学政経科に入学、まもなく中国同盟会にも加入している。翌年2月、馬は香港に戻って革命派として活動する傍ら、華人機器工会(労働組合)を結成した。これ以降も、機械製造研究の名目で、香港研機書塾、広東機器研究公会などの公会組織を創設し、これらを革命派の拠点としている。また、馬は革命派に対して蜂起の際の武器提供任務もこなした。 1911年(宣統3年)10月、武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、馬超俊も革命派としてこれに参戦した。まもなく武昌に赴き、湖北軍政府都督黎元洪の命で薩鎮氷率いる清朝海軍への調略に従事し、これを撤退または易幟させることに成功している。
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