革命的共和主義女性協会とは? わかりやすく解説

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革命的共和主義女性協会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:50 UTC 版)

クレール・ラコンブ」の記事における「革命的共和主義女性協会」の解説

1793年5月13日付の『モニトゥール』(1789年創刊フランス政府機関紙モニトゥール・ユニヴェルセル』)に、次の5月10日囲み記事掲載された。 女性市民市町村事務局出向き市町村警察に関する法律に従って女性のみが参加する協会の設立申し出た。この協会の目的は、共和国の敵の計画阻止する方策検討することである。名称は「革命的共和主義女性協会」とし、集会サントノレ通りジャコバン派図書館行われる。 革命的共和主義女性協会は、前年フランス革命参加したオランダ女権拡張論者エッタ・パルム・デルデール(フランス語版)が結成し短命に終わった真実の友協会」を除きパリ初め結成され女性クラブ結社であった。後にラコンブ別れたルクレール結婚したチョコレート工場労働者ポーリーン・レオンは、当初からラコンブとともに協会牽引した。「協会規約」には、会長月ごと持ち回りとあり、ラコンブレオンのほか、協会文書には代表としてルーソー、ポトー、モニエ、デュブルイユといった名前があるが、詳細不明である。アンラジェ指導者ルクレールのほか、ジャック・ルージャン=フランソワ・ヴァルレも革命的共和主義女性協会を支持し演壇立った上記の「共和国の敵」とは「ジロンド派」のことであり、最初にジャコバン派代表団派遣したときには18歳から55歳女性愛国者武装しヴァンデ反乱軍に対す軍隊結成することを提案したのみであったが、この後コルドリエ・クラブ代表団とともに国民公会に対して、「疑わしい人物」の即時逮捕全県パリ地区における革命裁判所設置ジャック・ピエール・ブリッソーピエール・ヴェルニヨ、アルマン・ジェンソネ(フランス語版)、フランソワ・ビュゾーシャルル・バルバルーらの糾弾、各都市における革命軍結成パリ軍の増員相場師買い占め人に対す厳罰求め請願書提出した5月31日にはパリ自治市会に代表を派遣し革命委員会への参加求めた48地区の代表によって構成される革命委員会結社クラブ)ではないために参加認められないとされたが、会議への参加許可された。 革命的共和主義女性協会は、1793年5月31日から6月2日にかけてアンラジェ指導者らを中心とする反ジロンド派蜂起 (Journées du 31 mai et du 2 juin 1793) において重要な役割果たした。ヴァルレはすでにシャルル・フランソワ・デュムーリエが敵と内通し国民公会打倒企てたことを知ったときに革命中央委員会設置しジャック・ルーパリ革命委員会総会呼びかけ自治市会検察官ピエール=ガスパール・ショーメット(フランス語版)の支持取り付けていた。5月31日革命中央委員会蜂起呼びかけテュイルリー宮殿襲撃匹敵する事態となったブリッソー、ジェンソネ、ビュゾー、ヴェルニヨ、バルバルー、ペティヨン(フランス語版)らジロンド派議員29人が次々と逮捕された。革命的共和主義女性協会におけるラコンブ影響力強まったのはこの頃からである。彼女は8月26日国民公会で、恐怖政治の手段、とりわけ反革命容疑者の逮捕要求する協会請願書読み上げ革命裁判所増設訴えた協会内でラコンブとポーリーヌ・レオンの影響力が強まると、協会自体アンラジェ系の極左組織と見なされ、その政治思想女性のみによる結社であるという理由9月訴えられジャコバン穏健派から批判を受けるようになったアンラジェの他の指導者も同様で、マクシミリアン・ロベスピエール率い山岳派との対立により、ジャック・ルー反革命容疑者とされ、9月逮捕された。ラコンブルー助けるために、革命的共和主義女性協会会長として国民公会逮捕者名簿点検申し入れたが、このためにますます国民公会反感を買うことになり、協会内部でも対立生じた協会対す攻撃標的もっぱらラコンブで、ジャコバン穏健派からの「革命政権崩壊させようとしている」といった非難のほか、『ガゼット・ド・フランス(フランス語版)』では「貴族好み酒好き男好き、ポーリーヌ・レオンの夫ルクレール愛人」などと書き立てられた。このような誹謗中傷は、女性結社そのもの対す批判つながり検察官ショーメットは家庭女性「聖域」である以上、家事育児が「女の仕事」であり、これは創造主定めたことであると主張し保安委員会ジャン=ピエール・アンドレ・アマール(フランス語版)は「しとやかあるべき女性公衆面前演説したり、男たち闘争することは許されることであろうか。概して女は高尚なことを考えたり、真剣に物事考え能力欠けている。したがって、われわれは、女は政治口出しすべきではないと考える」と訴えたラコンブはこれらすべてに抗議し反駁し続けたルーまた、革命的共和主義女性協会を「自由の砦」、「革命守り手」、「圧政者にとっての脅威」として称え続けたルーは、1794年2月10日、喉を突き刺して自殺した)。 1793年10月28日にはサン・キュロット抗議するレ・サン・ジノサン市場女性たちから攻撃受けた国民公会が、革命的共和主義女性協会の提案受けて三色記章着用義務付けたため、フランス象徴であるフリジア帽(赤い三角帽)を被って市場訪れた協会員を女性たち打ちのめし三色記章フリジア帽引き裂いた1793年10月30日国民公会女性による結社禁止し、革命的共和主義女性協会は非合法とされた。ラコンブ政治活動から身を引き生計立てるために再び女優としてダンケルク劇団参加するつもりでいたが、1794年4月2日コルドリエ・クラブ対す弾圧一環として協会2人とともに逮捕された。ラコンブ15か月収監された。ポール・リーブル監獄プレシ監獄、サント・ペラジ監獄たらい回しにされたが、リュクサンブール監獄ではロベスピエール事実上の妻エレオノール・デュプレ(フランス語版)、山岳派フィリップフランソワ=ジョゼフ・ル・バ(フランス語版)の妻エリザベート・ル・バ(フランス語版)と一緒であった。ポーリーヌ・レオンとルクレールもいた。ラコンブ監獄役人交渉して囚人世話役務めろうそくなどの必需品調達した出獄後1798年6月パリ男優一緒に暮らし家賃すら滞りがちな生活であったことがわかっているが、以後消息不明である。

※この「革命的共和主義女性協会」の解説は、「クレール・ラコンブ」の解説の一部です。
「革命的共和主義女性協会」を含む「クレール・ラコンブ」の記事については、「クレール・ラコンブ」の概要を参照ください。

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