革命的共和主義女性協会
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「クレール・ラコンブ」の記事における「革命的共和主義女性協会」の解説
1793年5月13日付の『モニトゥール』(1789年創刊のフランス政府の機関紙『モニトゥール・ユニヴェルセル』)に、次の5月10日付囲み記事が掲載された。 女性市民が市町村事務局に出向き、市町村警察に関する法律に従って、女性のみが参加する協会の設立を申し出た。この協会の目的は、共和国の敵の計画を阻止する方策を検討することである。名称は「革命的共和主義女性協会」とし、集会はサントノレ通りのジャコバン派図書館で行われる。 革命的共和主義女性協会は、前年、フランス革命に参加したオランダの女権拡張論者エッタ・パルム・デルデール(フランス語版)が結成し、短命に終わった「真実の友協会」を除き、パリで初めて結成された女性クラブ(結社)であった。後にラコンブと別れたルクレールが結婚したチョコレート工場労働者ポーリーン・レオンは、当初からラコンブとともに協会を牽引した。「協会規約」には、会長は月ごとの持ち回りとあり、ラコンブ、レオンのほか、協会の文書には代表としてルーソー、ポトー、モニエ、デュブルイユといった名前があるが、詳細は不明である。アンラジェの指導者はルクレールのほか、ジャック・ルー、ジャン=フランソワ・ヴァルレも革命的共和主義女性協会を支持し、演壇に立った。上記の「共和国の敵」とは「ジロンド派」のことであり、最初にジャコバン派に代表団を派遣したときには、18歳から55歳の女性愛国者が武装し、ヴァンデ反乱軍に対する軍隊を結成することを提案したのみであったが、この後、コルドリエ・クラブの代表団とともに国民公会に対して、「疑わしい人物」の即時逮捕、全県・パリ全地区における革命裁判所の設置、ジャック・ピエール・ブリッソー、ピエール・ヴェルニヨ、アルマン・ジェンソネ(フランス語版)、フランソワ・ビュゾー、シャルル・バルバルーらの糾弾、各都市における革命軍の結成、パリ軍の増員、相場師・買い占め人に対する厳罰を求める請願書を提出した。5月31日にはパリ自治市会に代表を派遣し、革命委員会への参加を求めた。48地区の代表によって構成される革命委員会は結社(クラブ)ではないために参加は認められないとされたが、会議への参加は許可された。 革命的共和主義女性協会は、1793年5月31日から6月2日にかけてアンラジェの指導者らを中心とする反ジロンド派の蜂起 (Journées du 31 mai et du 2 juin 1793) において重要な役割を果たした。ヴァルレはすでにシャルル・フランソワ・デュムーリエが敵と内通し、国民公会打倒を企てたことを知ったときに革命中央委員会を設置し、ジャック・ルーはパリ革命委員会の総会を呼びかけ、自治市会と検察官ピエール=ガスパール・ショーメット(フランス語版)の支持を取り付けていた。5月31日、革命中央委員会が蜂起を呼びかけ、テュイルリー宮殿襲撃に匹敵する事態となった。ブリッソー、ジェンソネ、ビュゾー、ヴェルニヨ、バルバルー、ペティヨン(フランス語版)らジロンド派の議員29人が次々と逮捕された。革命的共和主義女性協会におけるラコンブの影響力が強まったのはこの頃からである。彼女は8月26日の国民公会で、恐怖政治の手段、とりわけ反革命容疑者の逮捕を要求する協会の請願書を読み上げ、革命裁判所の増設を訴えた。協会内でラコンブとポーリーヌ・レオンの影響力が強まると、協会自体がアンラジェ系の極左組織と見なされ、その政治思想と女性のみによる結社であるという理由で9月に訴えられ、ジャコバン穏健派から批判を受けるようになった。 アンラジェの他の指導者も同様で、マクシミリアン・ロベスピエールが率いる山岳派との対立により、ジャック・ルーが反革命容疑者とされ、9月に逮捕された。ラコンブはルーを助けるために、革命的共和主義女性協会会長として国民公会に逮捕者名簿の点検を申し入れたが、このためにますます国民公会の反感を買うことになり、協会内部でも対立が生じた。協会に対する攻撃の標的はもっぱらラコンブで、ジャコバン穏健派からの「革命政権を崩壊させようとしている」といった非難のほか、『ガゼット・ド・フランス(フランス語版)』では「貴族好み、酒好き、男好き、ポーリーヌ・レオンの夫ルクレールの愛人」などと書き立てられた。このような誹謗中傷は、女性結社そのものに対する批判につながり、検察官ショーメットは家庭が女性の「聖域」である以上、家事・育児が「女の仕事」であり、これは創造主が定めたことであると主張し、保安委員会のジャン=ピエール・アンドレ・アマール(フランス語版)は「しとやかであるべき女性が公衆の面前で演説したり、男たちと闘争することは許されることであろうか。概して女は高尚なことを考えたり、真剣に物事を考える能力に欠けている。したがって、われわれは、女は政治に口出しすべきではないと考える」と訴えた。ラコンブはこれらすべてに抗議し、反駁し続けた。ルーもまた、革命的共和主義女性協会を「自由の砦」、「革命の守り手」、「圧政者にとっての脅威」として称え続けた(ルーは、1794年2月10日、喉を突き刺して自殺した)。 1793年10月28日にはサン・キュロットに抗議するレ・サン・ジノサン市場の女性たちから攻撃を受けた。国民公会が、革命的共和主義女性協会の提案を受けて三色の記章の着用を義務付けたため、フランスの象徴であるフリジア帽(赤い三角帽)を被って市場を訪れた協会員を女性たちが打ちのめし、三色の記章やフリジア帽を引き裂いた。 1793年10月30日、国民公会は女性による結社を禁止し、革命的共和主義女性協会は非合法とされた。ラコンブは政治活動から身を引き、生計を立てるために再び女優としてダンケルク劇団に参加するつもりでいたが、1794年4月2日、コルドリエ・クラブに対する弾圧の一環として、協会員2人とともに逮捕された。ラコンブは15か月間収監された。ポール・リーブル監獄、プレシ監獄、サント・ペラジ監獄とたらい回しにされたが、リュクサンブール監獄ではロベスピエールの事実上の妻エレオノール・デュプレ(フランス語版)、山岳派のフィリップ=フランソワ=ジョゼフ・ル・バ(フランス語版)の妻エリザベート・ル・バ(フランス語版)と一緒であった。ポーリーヌ・レオンとルクレールもいた。ラコンブは監獄の役人と交渉して囚人の世話役を務め、ろうそくなどの必需品を調達した。 出獄後は1798年6月にパリで男優と一緒に暮らし、家賃すら滞りがちな生活であったことがわかっているが、以後の消息は不明である。
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