孫文との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 14:49 UTC 版)
1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)では革命派として活動する。7月に袁世凱の政敵・岑春煊を擁立して広東に袁世凱打倒のための大元帥府を樹立した。しかし、広東軍内部の反乱により失敗に終わっている。 同年9月、李根源は日本へ亡命し、早稲田大学で政治経済を学んだ。翌年8月には、袁世凱打倒のための団体である欧事研究会を東京で設立した。1915年(民国4年)12月に護国戦争(第三革命)が発生すると、翌年4月に岑春煊に随って帰国する。5月、両広護国軍が肇慶に都司令部を設立すると、岑が都指令、梁啓超が都参謀、李根源が副都参謀となった。 袁世凱死後の11月、李根源は、張耀曽・谷鍾秀・鈕永建らと政学会を組織した。しかし、李らは南方政府にありながら段祺瑞と連携し、孫文への抵抗勢力となる。李は岑春煊を擁立し、陸栄廷ら広西派(旧桂系)と連合して、孫を一時失脚に追い込み、南方政府内で優位に立った。 しかし1920年(民国9年)に孫文、唐継尭らの政治的・軍事的反撃を受けて政学会は同年8月に解散に追い込まれる。さらに孫を支持する広東軍の陳炯明の軍事行動により、岑春煊・李根源らは失脚に追い込まれた。
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