孫文と共に
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1922年に入ると孫文はますます北伐断行にはやるようになった。前年11月には桂林に大本営が設置されており、蔣介石も大本営に入るように要請を受けていた。1月18日、蔣介石は結婚まもない陳潔如を連れ、孫文と共に桂林に入った。すぐさま大本営で作戦会議が開かれ、蔣は湖北攻撃を主張した。これに対して胡漢民や許崇智、李烈鈞などは江西を攻めるように主張し、論戦となった。蔣は強引に自説を押し通そうとした。結果、まず湖北を攻め、次に江西に進撃する妥協策が成立した。しかし、孫文が2月3日に出した北伐軍動員令では、李烈鈞が江西を、許崇智が湖南を攻めることになった。 だが、この北伐は実施されることなく終わった。陸軍部長の陳炯明が兵站や補給を妨害したためである。陳炯明は聯省自治主義者であった。すなわち陳は孫文と異なり、省自治を前提とした、各省の横の連合による地域統合型の国家建設を目指していたのである。陳は武力統一を目指す孫文と激しく対立した。 蔣介石はあらためて大本営で開かれた作戦会議で、北伐軍を広東に戻し、体勢を立て直してから江西に攻め入るべきだと主張した。この提案は受け入れられ、さらに蔣介石は北伐軍と陳炯明が衝突しないように調整に当たることとなった。4月12日に蔣介石が軍を率いて広東に入ると、陳炯明は孫文に辞表を提出し、配下の部隊を率いて逃亡した。孫文は陳炯明を軍職からは解任したものの内務部長の職には留めた。この措置に反発した蔣介石は、またしても孫文に辞表を出し、そして陳炯明に「孫文の意向に従い、北伐軍を指揮せよ」との警告を発して上海へ戻った。 孫文はその後も北伐を準備したが、それに反対する陳炯明との対立も先鋭化していった。そこで孫文は、上海にいた蔣介石に来援を求める電報を送っている。しかし北伐軍が広東を出発すると、陳炯明は6月16日にクーデターを起こし、広州の総統府を砲撃した。孫文は側近たちと共に軍艦「楚豫」に逃亡、六十数日にわたって陸上の陳炯明軍と交戦した。蔣介石は6月29日、孫文救援のために楚豫へ駆けつけ、48日間共に戦った。ここで蔣は孫文の厚い信頼を得ることに成功した。だが戦況は不利で、蔣介石は孫文に香港への逃亡を進言、孫文と蔣はイギリスの軍艦に移って香港に向かい、そこから上海へ移った。 蔣介石は再び上海で無為の生活を送ることになった。ここでの生活では陳炯明の裏切りを非難する手紙を孫文の側近に送るか、証券取引所に出入りして投機に熱中するかであった。こういった生活は1923年3月まで続いた。 広東政府を乗っ取った陳炯明は、北伐軍を率いていた許崇智など孫文傘下の軍に追い詰められていった。孫文は蔣介石を東路討賊軍参謀長に任命し、福建に派遣して軍を監理させようとした。しかし蔣は福建の司令部で許崇智と衝突してしまい、またもや上海へ帰った。このとき孫文は蔣介石の必ず他人と衝突する性格を案じる手紙を送り、蔣介石に役割を果たすように説いた。そこで蔣は再び福建に戻った。しかし、すでに雲南・広西の討賊軍が陳炯明を追い詰めいており、蔣が大きな役割を果たすことは少なかった。結局、陳炯明は敗れて恵州に退き、12月15日に討賊軍が広州に入城。1923年3月、孫文が陸海軍大元帥に就任して第三次広東軍政府が成立した。新政府において、蔣介石は大元帥府大本営参謀長に任命された。 参謀長に就任した蔣介石は、陳炯明の残党や直隷派の呉佩孚との戦いを指揮した。これらの戦いは、広東政府の財政難によって軍備の拡充が進んでいないこともあり、苦しいものであった。しかし蔣の軍事的能力は、孫文だけでなく後に蔣と対立することになる汪兆銘や胡漢民らにも高く評価された。
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