孫文の下での活動
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1920年(民国9年)、孫文・陳炯明が広東へ進攻してくると、陸栄廷・沈鴻英らは敗北し、広西に退却した。沈は広西辺防軍第3路軍総司令として、3個師を率いて賀県・平楽一帯に駐屯した。その後、陸は再び広東への進攻を企図したが、1921年(民国10年)6月、孫文の指示により陳炯明が広西へ逆進攻してくる(「援桂」)。 この時、劉震寰が陸栄廷側から離反する。形勢不利を悟った沈鴻英も、ついに陸に下野を迫る電報を打ち、陳炯明に寝返ろうと救桂軍総司令を自称した。ところが、陳はこれを信用せず、そのまま沈への攻撃を続ける。劣勢になった沈は趙恒惕を頼って湖南省に逃げ込んだ。 その後、北京政府の呉佩孚から支援を受け、沈は北洋陸軍第17師師長に任命された。1922年(民国11年)7月、広西省の広東軍が広東へ戻ったところ、沈は呉の命令により広東を攻撃したが、これは失敗する。しかし、11月に沈は広西省に戻り、桂林・柳州・梧州一帯を占領して、広西省の有力軍人としての地位を取り戻した。 この年の6月には、陳炯明が孫文に対して攻撃をしかけ、両者は決裂していた。孫文は、桂軍の劉震寰・沈鴻英、滇軍の楊希閔・范石生を味方に取り込み、沈は桂軍総司令に任命された。12月、この4軍人により組織された討賊軍が広州の陳に攻撃を開始する。1923年(民国12年)1月には、広州から陳を駆逐した。これにより、2月に孫は広州で大元帥府を再建した。
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