孫文の近侍として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/19 14:29 UTC 版)
1920年11月、孫文は海陸軍大元帥を廃止して、非常大総統に就任した。林資鏗は粤軍第九支隊司令に任命され、さらに汕頭警備司令と改称された。1921年、大元帥府参軍兼侍従武官に転任し、後に広三鉄路監督を兼任した。 1922年6月16日,陳炯明は孫文に反旗を翻し、孫文は広州の総統府を脱出した。林資鏗は陳炯明軍に敗北し捕えられたが、すぐに救出された。10月、粤軍第2軍軍長許崇智が孫文の命令で部隊を率いて福州に進入し、林森が福建省主席に就任した。林森は林資鏗を福建省水利局局長に任命した。 しかし1923年1月、許崇智が孫文の命で福建省を離れて広東省に戻って陳炯明の討伐にあたると、福建省は直隷派軍閥の孫伝芳の手に落ち、林資鏗は辞職し、企業活動に戻った。
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