孫文の側近として
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1913年(民国2年)、二次革命(第二革命)が勃発すると、江西都督の李烈鈞を訪れ、蜂起を促した。しかし二次革命は失敗に終わり、呉は日本に亡命した。このとき、明治大学に入学し、法律を学んでいる。翌年に孫文が中華革命党を組織すると、呉も率先してこれに加入した。以後は袁世凱打倒のために宣伝活動に従事し、1916年(民国5年)春に帰国して、香港やマカオで反袁活動を継続した。 1917年(民国6年)7月、孫文が護法運動を広州で開始すると、呉鉄城もこれに合流し、護法軍政府が成立すると大元帥府参軍に任ぜられる。1920年(民国9年)9月、討賊軍総指揮朱執信が暗殺されると、呉が代理総指揮に任ぜられ、広東軍の陳炯明・許崇智らと協力して反孫の旧広西派を駆逐した。1922年(民国11年)6月、陳が反孫のクーデターを起こすと、呉は民軍を組織して抵抗したが敗れて上海へ逃れた。以後も陳討伐のための活動を継続している。 1923年(民国12年)1月、孫文が陳炯明討伐を宣言すると、呉鉄城は許崇智と協力して福建省で東路討賊軍を組織し、呉は第1路軍総司令に任ぜられた。翌月、陳を駆逐して孫が広州で大元帥府を再建すると、呉は広州市で公安局長、省警務処長などをつとめた。 同年10月、中国国民党臨時中央執行委員に選ばれ、国民党の改組事務を担当したほか、警衛軍講武堂を設立して若年層の軍事訓練を請け負った(翌年5月、黄埔軍官学校に併合)。1924年(民国13年)9月、孫文の北伐に随従し大本営参軍長に任ぜられる。10月、広州商団が反乱を起こすと、呉は警衛軍を率いてこれを鎮圧した。
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