孫文の亡命の地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:30 UTC 版)
1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると中国人の多くが帰国してしまうが、戦争が終わり、1899年(明治32年)に条約改正により居留地が廃止されると、中国人は職業制限を受けたものの、居留地外にも住むことを許された。袁世凱に追われ大日本帝国に亡命した孫文もこの地で華僑にかくまわれながら革命活動を続けている。 ただしこの時期は単に外国人街であり、特に中華街というわけではない。例えば1921年(大正10年)の横浜市商工案内によれば、この地区の総店舗数263軒中、日本人店149軒、欧米人店79軒に対して中国人店35軒であり、そのうち中華料理店はわずか5軒であった。一方1910年(明治43年)の『名誉鑑』では、有名な広東料理店として5軒を挙げており、1900年(明治33年)以降一挙に中華料理店が増えた(『横浜中華街』p83)。
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