孫文の国民政府へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 21:13 UTC 版)
1917年に帰国した宋子文は、漢冶萍公司秘書や華義銀行総経理を務めた。もともと父の宋嘉澍が孫文の支持者であった上、孫文と結婚していた姉の宋慶齢の推薦により、1923年に孫文により広東に招かれた。広東の国民政府では両広塩務稽核所経理や広州中央銀行行長として、財政改良を担当した。孫文の死後は国民政府財政部長に就任し、また広東省財政庁長を兼任して政府の財政統一を進めた。この間、国民政府の収入は1924年の約798万元から1927年には約1億876万元へと急増している。国民党の北伐成功後は、国民政府委員や財政部長、中央銀行総裁といった職を歴任する南京国民政府の重鎮となる。
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