山西派への加入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:14 UTC 版)
1909年(宣統元年)、乙酉科抜貢となる。山西大学堂入学後に、秘密裏に中国同盟会に加入した。辛亥革命が勃発すると、趙丕廉も革命派として蜂起に参加している。 中華民国成立後は、同郷の山西派指導者の閻錫山により山西軍政府秘書長に起用された。以後、山西都督府参議、国民党山西省党部理事を歴任した。1914年(民国3年)、第二革命(二次革命)失敗の影響もあり、安徽省に逃れ、省教育庁で官職に就く。袁世凱死後の1916年(民国5年)に山西省に戻り、県長等を歴任した後に山西省立国民師範学校校長に就任、さらに教育学院を創設した。 1926年(民国15年)秋、山西教育会長として趙丕廉は上海へ赴いた。実はこのときの趙丕廉は閻錫山の密命を受けており、同時に武漢へ赴いて国民政府と閻錫山の易幟につき交渉している。易幟後、趙丕廉は山西省政府農工庁庁長に任ぜられ、あわせて国民革命軍第3集団軍政治部主任に任ぜられた。1928年(民国17年)3月、閻錫山が国民政府内政部部長に任ぜられると、あわせて趙丕廉も内政部次長に任ぜられる。同年10月、山西派で同僚の趙戴文が国民政府内政部部長代理となり、引き続き趙丕廉がこれを補佐した(翌年1月まで)。同年、趙丕廉は賑務委員会常務委員となっている。
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