趙戴文とは? わかりやすく解説

趙戴文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/05 06:04 UTC 版)

趙 戴文
Who's Who in China 4th ed. (1931)
プロフィール
出生: 1867年11月28日
同治6年11月3日
死去: 1943年民国32年)12月17日
中華民国 山西省吉県
(現:臨汾市吉県)
出身地: 山西省代州五台県
(現:忻州市
職業: 政治家
各種表記
繁体字 趙 戴文
簡体字 赵 戴文
拼音 Zhào Dàiwén
ラテン字 Chao Tai-wen
和名表記: ちょう たいぶん
発音転記: ジャオ・ダイウェン
テンプレートを表示

趙 戴文(ちょう たいぶん、1867年11月28日 - 1943年12月17日)は、清末民初の政治家。民国期山西省を統治した閻錫山の腹心である。次隴

事跡

閻錫山の腹心へ

貧しい家庭に生まれたが、学問において次第に名を成し、1893年光緒19年)には科試(郷試の予備試験)で列一等第一を得た。その後、山西大学堂などで教鞭をとる。

1905年(光緒31年)冬、日本へ留学し、弘文学院に入学した。この時に、孫文(孫中山)の三民主義思想に傾倒し、趙戴文も中国同盟会に加入している。また、この時に閻錫山と知り合い、閻錫山の一時帰郷に同行して帰国した。その後、閻錫山が革命派による蜂起を企図すると、趙はこれに参画している。

1912年民国元年)3月、閻錫山が袁世凱から山西都督に任命されると、趙戴文は山西都督府秘書長に任命された。趙戴文は、閻錫山による山西統治に内政面で貢献した。特に地方組織や教育に取組み、閻錫山の新政推進を支えた。1926年(民国15年)、閻錫山の指示を受けて趙戴文は江西省に向かい、蔣介石との交渉役を務めている。1928年(民国17年)2月、閻錫山が国民革命軍第3集団軍総司令に就任すると、趙戴文は同軍の総参議兼政治訓練部主任に就任した。同年6月、閻錫山の軍が北京天津方面へ進軍すると、趙戴文は察哈爾都統に任命されている。

国民政府時代の活躍

趙戴文別影(『最新支那要人伝』1941年)

その後、趙戴文は閻錫山の推薦により南京へ派遣された。国民政府中央で蒙蔵委員会副委員長、内政部次長(部長代理)、監察院長を歴任している。蔣介石と閻錫山が対立した際には、趙戴文がその調停役を務め、衝突を回避しようと図った。しかし、最終的に1930年(民国19年)の中原大戦に至り、閻錫山は敗北した。

閻錫山が1932年(民国21年)2月に太原綏靖公署主任として復帰すると、趙戴文も山西に戻り、公署総参議に任命された。そして、閻錫山のために山西省政10年計画を立案し、地方建設を推進している。1935年(民国24年)に閻錫山が反共組織である「主張公道団」を結成し、その総団長となると、趙戴文が副総団長をつとめた。1936年(民国25年)5月、趙戴文は山西省政府主席に任命されている(ただし、省政の事実上のトップは依然として閻錫山であった)。さらに閻錫山が組織した「山西自強救国同志会」で副会長をつとめた。

1937年(民国26年)、日中戦争が勃発し、閻錫山が第2戦区司令長官に任命されると、趙戴文は第2戦区長官部政治部主任となり、抗戦意識の昂揚につとめた。1939年(民国28年)には、中国国民党山西省党部主任委員となる。しかし、この頃にはすでに高齢と病のため、趙戴文は政務・党務を他の者に委ねている。

1943年(民国32年)12月17日、趙戴文は、山西省吉県で病没した。享年77(満76歳)。

参考文献

中華民国
先代
高維嶽
察哈爾都統
1928年6月 - 11月
次代
(廃止)
中華民国
先代
(創設)
察哈爾省政府主席
1928年10月 - 11月
次代
楊愛源
先代
蔡元培
監察院長
1929年8月 - 1930年11月
次代
于右任
先代
徐永昌
山西省政府主席
1936年5月 - 1943年12月
1938年3月より閻錫山代理)
次代
閻錫山




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「趙戴文」の関連用語

趙戴文のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



趙戴文のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの趙戴文 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS