国民政府時代の活躍
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その後、趙戴文は閻錫山の推薦により南京へ派遣された。国民政府中央で蒙蔵委員会副委員長、内政部次長(部長代理)、監察院長を歴任している。蔣介石と閻錫山が対立した際には、趙戴文がその調停役を務め、衝突を回避しようと図った。しかし、最終的に1930年(民国19年)の中原大戦に至り、閻錫山は敗北した。 閻錫山が1932年(民国21年)2月に太原綏靖公署主任として復帰すると、趙戴文も山西に戻り、公署総参議に任命された。そして、閻錫山のために山西省政10年計画を立案し、地方建設を推進している。1935年(民国24年)に閻錫山が反共組織である「主張公道団」を結成し、その総団長となると、趙戴文が副総団長をつとめた。1936年(民国25年)5月、趙戴文は山西省政府主席に任命されている(ただし、省政の事実上のトップは依然として閻錫山であった)。さらに閻錫山が組織した「山西自強救国同志会」で副会長をつとめた。 1937年(民国26年)、日中戦争が勃発し、閻錫山が第2戦区司令長官に任命されると、趙戴文は第2戦区長官部政治部主任となり、抗戦意識の昂揚につとめた。1939年(民国28年)には、中国国民党山西省党部主任委員となる。しかし、この頃にはすでに高齢と病のため、趙戴文は政務・党務を他の者に委ねている。 1943年(民国32年)12月17日、趙戴文は、山西省吉県で病没した。享年77(満76歳)。
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