国民政府時代の活動
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1927年(民国16年)3月、北京政府の張作霖によって北京大学が封鎖されてしまうと、蔡元培は国民政府を頼って杭州に至り、浙江臨時政治会議委員兼主席代理となる。蔡は馬寅初・蔣夢麟ら北京大学教授陣を招聘し、浙江省政府に参加させた。馬は禁煙委員会委員としてアヘン取締に従事し、農民銀行の創設準備を進めている。しかし、まもなく張静江(張人傑)が浙江省政府委員となったため、蔡・馬ら北京大学教授たちは省政府から追われることになった。馬は杭州財務学校で教鞭を執り、さらに上海浙江興業銀行総稽核も兼任している。 1928年(民国17年)10月、馬寅初は立法院立法委員に任ぜられ、翌年には立法院経済委員会委員長、財政委員会委員長に選出された。さらに南京中央大学、金陵大学、上海交通大学などで経済学の教授を兼任している。1931年(民国20年)の満州事変(九・一八事変)勃発後、馬は「長期抗戦の準備」と題する一文を公表し、蔣介石のいわゆる「不抵抗政策」、攘外安内政策を批判した。1934年(民国23年)には、物価の大混乱を招く対外金融政策をとったとして、財政部長孔祥熙を立法院の会議で激しく非難している。
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国民政府時代の活動
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1926年(民国15年)9月、于右任は馮玉祥による五原誓師に参加し、陝西省政府主席となった(ただし、石敬亭が代理)。翌年、国民聯軍駐陝総司令として、北伐に呼応する準備を整えた。4月、蒋介石が南京に国民政府を創設すると、于は国民政府委員(同年9月に常務委員)、軍事委員会常務委員に任命された。1928年(民国17年)2月、審計院院長に任命される。1931年(民国20年)11月、監察院院長に任命され、以後死去するまで30数年に渡り、この地位に終身あり続けた。国民党でも、第1期から第6期まで一貫して中央執行委員に選出されている。また、1938年(民国27年)には、国防最高委員会常務委員に任ぜられた。 1948年(民国37年)、于右任は副総統選挙に出馬したが敗れた(李宗仁が当選)。国共内戦が終盤にさしかかった1949年(民国38年)に、于は台湾へ逃れている。翌年に国民党評議委員を兼任した。1964年(民国53年)11月10日、台北市で死去。享年86(満85歳)。于は政治家として活動する一方、文化人としても知られ、書・漢詩などで優れた作品を残した。
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国民政府時代の活動
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国民政府の北伐に対しては、施肇基は支持の態度をとり、外国に対して中国へ介入しないよう求めた。1928年(民国17年)7月、国民政府により施の駐米公使の地位が確認され、同年11月、駐英全権公使に異動した。1930年(民国19年)、国際連盟中国全権代表兼理事会理事をつとめる。 1931年(民国20年)9月、満州事変が勃発すると、施肇基は、日本の軍事行動は国際的公理に反するとして、国際連盟を舞台にこれを激しく批判・非難した。しかし、蔣介石は不拡大方針(不抵抗方針)を指示し、11月25日、やむなく施はその訓令に基づいて錦州を中立区とする提案を行うに至る。これは国内世論の激しい反発に遭ったため、12月4日に撤回した。結局、世論との板ばさみに悩んだ施は翌日に辞意を示し、翌年1月、顔恵慶がその後任となった。 1933年(民国22年)、施肇基は駐米公使に返り咲く。1935年(民国24年)6月、中米双方が使節の昇格を行い、施が初代駐米大使となった。翌年8月、大使を辞任し、帰国すると上海に寓居した。日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、救護活動に従事し、諸外国に中国支援を求める活動を行った。1941年(民国30年)にはアメリカに向かい、やはり中国のための支援活動を継続している。 1945年(民国34年)、サンフランシスコで開催された国際連合憲章制定会議において、施肇基は中国代表団の顧問をつとめた。1948年(民国37年)、国際復興開発銀行顧問委員会委員兼顧問に任じられている。 1958年1月3日、ワシントンD.C.で病没。享年82(満80歳)。
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国民政府時代の活動
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その後、南方に移って国民政府側に転じる。1927年(民国16年)、上海銀行公会書記長に任ぜられ、4月には江蘇省政府委員に任ぜられた。8月、国民政府財政部賦税司司長兼塩務処長代理に任ぜられ、さらに国定税則委員会委員も兼ねている。また、国立中央大学、国立中央政治大学の経済系(経済学部)教授もつとめた。翌1928年(民国17年)、交通銀行監察人も兼ね、8月には第2期立法院立法委員に任ぜられている(第3期も連続就任)。1933年(民国22年)2月、湖北省政府委員兼財政庁庁長に任ぜられ、1938年(民国27年)6月までつとめた。 1940年(民国29年)7月、財政部専門委員に任ぜられ、香港で職務に就き、『財政評論』社社長代理もつとめた。1943年(民国32年)1月、江蘇省政府委員兼財政庁庁長に任ぜられ、後に江蘇農民銀行董事長(理事長)も兼任した。1951年(民国40年)、台湾に移住し、台湾第一商業銀行董事、交通銀行監察人、逢甲学院董事などをつとめている。1965年(民国54年)7月9日、台北市にて病没。享年79(満78歳)。
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国民政府時代の活動
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1925年(民国14年)7月、広州に国民政府が成立すると、朱培徳は国民政府委員、軍事委員会委員兼軍需部長に任ぜられた。8月、朱が率いる滇軍は国民革命軍第3軍に改組され、朱がそのまま第3軍軍長となる。陳炯明討伐の第2次東征では南路討賊軍総指揮をつとめた。 1926年(民国15年)夏からの北伐では、朱培徳は右翼軍総指揮として、江西方面で北京政府側の孫伝芳軍と戦い、同年11月に勝利して江西を占拠した。これにより、朱は国民革命軍第5路軍総指揮となったほか、江西省臨時政府委員会委員兼代理省政府主席、南昌警備司令の地位にもつく。それからまもなく、蔣介石が江西省の実権を手中にしようと画策してきたため、朱はこれに対抗して汪兆銘(汪精衛)らを支持して反蔣の態度をとった。1927年(民国16年)4月、汪の武漢国民政府の支持を受けて、朱は江西省政府主席に任ぜられている。 1928年(民国17年)1月以降は、朱培徳は蔣介石と和解し、その下で江西省の中国共産党討伐などに従事したり、あるいは反蔣介石派との戦いにも加わった。1929年(民国18年)9月、江西省政府主席から参謀本部総参謀長に昇進している。1932年(民国21年)3月に蔣が総参謀長をかねると、朱は軍事委員会弁公庁主任に転じ、さらに代理訓練総監などもつとめた。 1937年(民国26年)2月17日、朱培徳は南京で国民党第5期3中全会出席中に、薬剤を注射された際の中毒症状により死去した。享年49(満47歳)。
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