閻錫山の腹心へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:14 UTC 版)
貧しい家庭に生まれたが、学問において次第に名を成し、1893年(光緒19年)には科試(郷試の予備試験)で列一等第一を得た。その後、山西大学堂などで教鞭をとる。 1905年(光緒31年)冬、日本へ留学し、弘文学院に入学した。この時に、孫文(孫中山)の三民主義思想に傾倒し、趙戴文も中国同盟会に加入している。また、この時に閻錫山と知り合い、閻錫山の一時帰郷に同行して帰国した。その後、閻錫山が革命派による蜂起を企図すると、趙はこれに参画している。 1912年(民国元年)3月、閻錫山が袁世凱から山西都督に任命されると、趙戴文は山西都督府秘書長に任命された。趙戴文は、閻錫山による山西統治に内政面で貢献した。特に地方組織や教育に取組み、閻錫山の新政推進を支えた。1926年(民国15年)、閻錫山の指示を受けて趙戴文は江西省に向かい、蔣介石との交渉役を務めている。1928年(民国17年)2月、閻錫山が国民革命軍第3集団軍総司令に就任すると、趙戴文は同軍の総参議兼政治訓練部主任に就任した。同年6月、閻錫山の軍が北京・天津方面へ進軍すると、趙戴文は察哈爾都統に任命されている。
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