閻錫山を支えて
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1930年(民国19年)の中原大戦では、閻錫山配下として、第1路前敵副総司令兼隴海路司令となった。しかし、蔣介石軍に敗北する。閻錫山が日本へ亡命した際には、徐永昌と楊愛源に晋綏軍(山西軍)再編が委ねられた。それにともない、徐永昌は第5軍軍長兼晋綏警備総司令となっている。1931年(民国20年)6月、徐永昌の第5軍は第33軍に改組され、引き続き軍長をつとめた。 同年8月、代理山西省政府主席に任じられ、10月、正式にその地位に就いた。1932年(民国21年)1月、北平政務委員会常務委員、山西省清郷督弁に任じられている。しかし実態としては、この頃に復帰した閻錫山が依然として山西省の最高実力者であったことに変わりはない。 日中戦争(抗日戦争)勃発後の1937年(民国26年)、軍事委員会委員長保定行営主任に任ぜられ、第1戦区の軍事を担当した。1938年(民国27年)2月、国民政府軍令部部長に転じ、前線指揮からは退いた。1945年(民国34年)9月、徐永昌は中華民国の代表として日本に赴き、ミズーリでの日本の降伏文書調印式に参列している。1946年(民国35年)6月、陸軍大学校長に任ぜられた。 1948年(民国37年)、行憲国民大会代表に当選し、同年末に国防部部長に任ぜられた。1949年(民国38年)3月、人民解放軍により閻錫山が籠る太原の陥落が目前となる。徐永昌・楊愛源は中華民国総統代理李宗仁に働きかけ、閻錫山を南京に召喚させた。これにより、閻錫山は太原脱出の口実を得ることとなり、専用飛行機により南京へ向かうことができた。4月、徐永昌は閻錫山に随従して台湾へ逃れている。台湾では、徐永昌は光復大陸設計研究委員会(中国語版)副主任委員に任ぜられた。 1959年7月12日、台北にて死去。享年73(満71歳)。
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