閻錫山を支えてとは? わかりやすく解説

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閻錫山を支えて

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 04:40 UTC 版)

徐永昌」の記事における「閻錫山を支えて」の解説

1930年民国19年)の中原大戦では、閻錫山配下として、第1路前敵副総司令兼隴海路司令となった。しかし、蔣介石軍に敗北する閻錫山日本へ亡命した際には、徐永昌楊愛源に晋綏軍(山西軍)再編委ねられた。それにともない徐永昌第5軍軍長兼晋綏警備総司令となっている。1931年民国20年6月徐永昌第5軍は第33軍に改組され、引き続き軍長つとめた同年8月代理山西省政府主席任じられ10月正式にその地位就いた1932年民国21年1月北平政務委員会常務委員山西省清郷督弁に任じられている。しかし実態としては、この頃復帰した閻錫山依然として山西省の最高実力者であったことに変わりはない。 日中戦争抗日戦争勃発後の1937年民国26年)、軍事委員委員長保定行営主任に任ぜられ、第1戦区軍事担当した1938年民国27年2月国民政府軍令部部長転じ前線指揮からは退いた1945年民国34年9月徐永昌中華民国代表として日本に赴き、ミズーリでの日本の降伏文書調印式に参列している。1946年民国35年6月陸軍大学校長に任ぜられた。 1948年民国37年)、行憲国民大会代表当選し同年末に国防部部長に任ぜられた。1949年民国38年3月人民解放軍により閻錫山籠る太原陥落目前となる。徐永昌楊愛源中華民国総統代理李宗仁働きかけ閻錫山南京召喚させた。これにより、閻錫山太原脱出口実を得ることとなり、専用飛行機により南京へ向かうことができた。4月徐永昌閻錫山随従して台湾へ逃れている。台湾では、徐永昌光復大陸設計研究委員会中国語版副主任委員に任ぜられた。 1959年7月12日台北にて死去享年73(満71歳)。

※この「閻錫山を支えて」の解説は、「徐永昌」の解説の一部です。
「閻錫山を支えて」を含む「徐永昌」の記事については、「徐永昌」の概要を参照ください。

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