閻錫山の忠臣とは? わかりやすく解説

閻錫山の忠臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 04:48 UTC 版)

楊愛源」の記事における「閻錫山の忠臣」の解説

1937年民国26年)の日中戦争抗日戦争勃発後、楊愛源第2戦区第6集団軍総司令任じられ、晋北(山西省北部)を守備した10月第2戦区前敵総指揮衛立煌指揮下で忻口戦役参戦し板垣征四郎率い第5師団大きな打撃与えた1939年民国28年)、第2戦区副司長官兼第6集団軍総司令昇格した閻錫山は、山西省侵攻してくる日本軍との間で時に和し時に戦いながら自己の権力保持した楊愛源も、終始一貫して閻錫山路線命令忠実であった1945年民国34年5月楊愛源中国国民党第6期中央執行委員選出されている。 日中戦争勝利後の1946年民国35年)、楊愛源太原綏靖公署副主任任じられ閻錫山に次ぐ省内第2位地位就いたその後楊愛源閻錫山腹心として堅固な忠誠示したが、国共内戦における中国共産党人民解放軍)を相手戦いでは、次第劣勢に追い込まれていく。 1949年民国38年3月人民解放軍により閻錫山籠る太原陥落目前となる。楊愛源徐永昌とともに中華民国総統代理李宗仁働きかけ閻錫山南京召喚させた。これにより、閻錫山太原脱出口実を得ることとなり、専用飛行機により南京へ向かうことができた。4月楊愛源閻錫山随従して台湾へ逃れている。台湾では、総統府顧問委員会顧問任じられている。1952年民国41年10月引退した1959年1月2日台北にて病没享年73

※この「閻錫山の忠臣」の解説は、「楊愛源」の解説の一部です。
「閻錫山の忠臣」を含む「楊愛源」の記事については、「楊愛源」の概要を参照ください。

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