閻錫山の忠臣
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1937年(民国26年)の日中戦争(抗日戦争)勃発後、楊愛源は第2戦区第6集団軍総司令に任じられ、晋北(山西省北部)を守備した。10月、第2戦区前敵総指揮衛立煌の指揮下で忻口戦役に参戦し、板垣征四郎率いる第5師団に大きな打撃を与えた。1939年(民国28年)、第2戦区副司令長官兼第6集団軍総司令に昇格した。 閻錫山は、山西省に侵攻してくる日本軍との間で時に和し、時に戦いながら自己の権力を保持した。楊愛源も、終始一貫して閻錫山の路線・命令に忠実であった。1945年(民国34年)5月、楊愛源は中国国民党第6期中央執行委員に選出されている。 日中戦争勝利後の1946年(民国35年)、楊愛源は太原綏靖公署副主任に任じられ、閻錫山に次ぐ省内第2位の地位に就いた。その後も楊愛源は閻錫山の腹心として堅固な忠誠を示したが、国共内戦における中国共産党(人民解放軍)を相手の戦いでは、次第に劣勢に追い込まれていく。 1949年(民国38年)3月、人民解放軍により閻錫山が籠る太原の陥落が目前となる。楊愛源は徐永昌とともに中華民国総統代理李宗仁に働きかけ、閻錫山を南京に召喚させた。これにより、閻錫山は太原脱出の口実を得ることとなり、専用飛行機により南京へ向かうことができた。4月、楊愛源は閻錫山に随従して台湾へ逃れている。台湾では、総統府顧問委員会顧問に任じられている。1952年(民国41年)10月、引退した。 1959年1月2日、台北にて病没。享年73。
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