山西派からの離脱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 07:27 UTC 版)
1927年(民国16年)に、閻錫山が北伐に呼応すると、晋軍は国民革命軍第3集団軍に改組された。商震は閻錫山から第3集団軍代理総司令に任ぜられ、奉天派に対する攻撃を開始している。同年7月、第1軍団軍団長に任ぜられ、9月には第3集団軍左路総指揮を兼ねた。1928年(民国17年)4月、商震は保定・北京・天津等を次々と攻略している。6月、河北省政府主席に任命され、10月には国民政府軍事委員会委員となった。11月、北伐の軍功により、平津警備副司令(代理司令)に任ぜられた。 1929年(民国18年)3月、商震は中国国民党第3期候補中央監察委員に選出された。しかし、この頃から閻錫山は商震が自主的な行動をしているのではないかと疑い始める。同年10月、閻錫山は商震を山西に召還し、有名無実な地位にすぎない山西省政府主席に任命した。このため、1930年(民国19年)に閻錫山が反蔣介石の中原大戦を起こした際には、商震はこれに非協力的な態度をとっている。 これが幸いして、反蔣介石軍敗北後の1931年(民国20年)1月に、商震は引き続き山西省政府主席に留任して民政庁長も兼ね、4月には、張学良が北平で組織した陸海空軍副総司令行営で第4軍軍長も兼ねた。7月、商震は石友三の反蔣介石クーデター鎮圧に貢献し、第32軍軍長として新たに軍を編制している。しかし、その後も閻錫山の影響力・介入が続き、これを嫌った商震は8月に山西省政府主席の地位を自ら辞任した。以後、商震は山西派からは離脱していくことになる。
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