山西派での台頭
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1917年(民国6年)7月、商震は張勲復辟の鎮圧に貢献し、晋軍(山西軍)第4混成旅旅長に昇進した。同時期に段祺瑞が行った援湘(湖南討伐)に商震は派遣されたが、このとき全旅覆滅の敗北を喫している。山西に戻った後に商震は兵工廠主管を命ぜられたが、このときの運営は優秀で、山西軍の強化に貢献した。その後指揮官に復帰して軍功をあげ、1918年7月、山西陸軍第1混成旅旅長に返り咲いている。 1924年(民国13年)1月、商震は山西省暫編第1混成旅旅長に昇進する。同年冬、国民軍に味方する河南省の樊鍾秀が山西に攻撃を仕掛け、一時山西が危機に陥ったが、商震がこれを迎撃して敗退させた。1926年(民国15年)の南口大戦では、他の北京政府軍と協力して国民軍を包囲・攻撃した。同年8月、国民軍が南口から撤退すると、商震は綏遠都統に任ぜられた。
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山西派での台頭
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清末に山西陸軍小学堂に入学する。1911年(宣統3年)に辛亥革命が山西省で勃発すると、学生軍の一員として革命派に加わった。中華民国成立後の1914年(民国3年)、清河陸軍第1予備学校に入学し、1916年(民国5年)春、保定陸軍軍官学校候補生隊に加入する。1917年(民国6年)秋、保定陸軍軍官学校に正式に入学し、1918年(民国7年)9月、第5期歩兵科を卒業した。 卒業後は山西に戻り、以後、閻錫山率いる晋軍(山西陸軍)で順調に昇進していく。1926年(民国15年)、戦功もあって第10旅旅長に抜擢され、1927年(民国16年)には第5師師長、1928年(民国17年)6月には第6軍軍長にまで昇進している。同年10月、北伐終了に伴う国民革命軍の再編・軍縮を受け、中央陸軍編制の下で国民革命軍第37師師長に任命された。同年冬、綏遠警備司令に任命されている。
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