アメリカ独立戦争での活動
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「フランシス・マリオン (軍人)」の記事における「アメリカ独立戦争での活動」の解説
1775年、マリオンはサウスカロライナ地方議会の議員となり、6月21日、ウィリアム・ムールトリー指揮下の第2サウスカロライナ連隊で大尉に任官した。1776年6月には、チャールストンのサリバン砦とムールトリー砦の防衛戦に参加した。 1776年9月、大陸会議はマリオンを中佐に任命した。1779年の秋、マリオンはサバンナの包囲戦に参加し、1780年の早く、将軍ベンジャミン・リンカーンの下で民兵の訓練を行った。 1780年5月12日にチャールストンが陥落したとき、マリオンは事故で踝を痛めており、静養のために市を離れていたので捕虜にならずに済んだ。 チャールストン陥落に続いて、モンクス・コーナーで将軍イサック・フーガーが敗れ、ワックスホー(ノースカロライナとの境界近く、今日のランカスター郡)の虐殺で中佐アブラハム・ビュフォードが敗れると、マリオンは小さな部隊を組織化したが、当初の陣容は20名から70名の間に過ぎなかった。これがサウスカロライナでイギリス軍に対抗する唯一の軍隊だった。この時点でマリオンは痛めた踝の治りが遅く片足を引きずって歩いていた。 マリオンはキャムデンの戦いの直前に将軍ホレイショ・ゲイツの部隊に合流した。しかし、ゲイツはマリオンを信頼せず、ピー・ディー地域のウィリアムスバーグ民兵の指揮をさせるという口実でマリオンを追い払った。ゲイツはマリオンには偵察任務を与え、また戦闘後にイギリス軍が逃走した場合の妨害を命じていた。このためにマリオンはキャムデンの戦いに参加しなかったが、チャールストンの戦いから転進中に捕虜になっていたメリーランド兵150名を奪還し、加えてイギリス軍護衛兵20名を捕虜にした。開放されたメリーランド兵は戦争に負けたと思っており、マリオンの部隊に加わることを拒否して逃亡した。 しかし、マリオンは非正規軍の優れて有能な指揮官であることを民兵達に認めさせることができた。大陸軍の部隊とは異なり、マリオンの部隊兵は給与がなく、自分で馬や武器や時には食料も調達していた。マリオンの部隊は地元からの調達ではなく捕まえたイギリス軍や王党派軍から物資を得ていた。 マリオンは正面切っての戦闘に向かうことは滅多になく、王党派やイギリス正規軍の大部隊を急襲し同様に素早い撤退を繰り返した。チャールストン陥落後にイギリス軍は、サウスカロライナの王党派の助けを借りてサウスカロライナに駐屯していたが、ウィリアムスバーグは例外だった。イギリス軍は一度だけウィリアムスバーグへの侵攻を試みたが、ミンゴ・クリークの戦いでマリオンに撃退された。 イギリス軍はマリオンを特に憎み、何度も彼の部隊を無力化する努力を続けたが、ウィリアムスバーグ地域の民衆は圧倒的に愛国派が多く、マリオンの情報収集能力がイギリス軍より勝っていた。 大佐バナスター・タールトンがマリオンを捕まえようと派遣されたが、沼地の道を逃げていく「沼の古狐」を見つけることはできなかった。タールトンとマリオンは民衆の心に鮮明に対照的な影を落とした。タールトンは民家を焼き破壊したために憎まれ、マリオンの部隊は物資を徴発するときも、あるいはイギリス軍の手に渡らないように破壊するときも、所有者に受取証を渡していた。この受取証の多くは新しい州政府によって購われた。 マリオンがゲリラ戦でその才能を現すとイギリス軍の悩みの種になり、ノースカロライナに逃げていた知事ジョン・ラトリッジはマリオンを植民地軍の准将に任命した。 将軍ナサニエル・グリーンが南部戦線の指揮を執ることになり。マリオンと大佐ヘンリー・リーは1781年1月にジョージタウンの攻撃を命じられたが、不成功に終わった。しかし、4月に彼らはワトソン砦を占領し、5月にはモット砦を抑える事でカロライナのイギリス軍の情報通信網を破壊することに成功した。8月31日、マリオンはイギリス軍の少佐C.フレーザーが指揮する500名の部隊に包囲されていた大陸軍の小部隊を救出した。この件でマリオンは大陸会議より感謝状を受けた。ユートースプリングスの戦いでは、マリオンは将軍グリーンの右翼を受け持った。 1782年、マリオンがジャクソンボロの議会に出ている間に、彼の部隊の士気が衰え彼をイギリス軍に売り渡してしまおうという陰謀が発覚した。しかしその年の6月、彼は王党派の蜂起をピーディー川の堤で鎮圧し、8月に部隊を去り故郷の農園に帰った。 終戦後にマリオンはいとこのメアリー・エスター・ビドーと結婚した。甥のセオドアが叔父であるマリオンに結婚するときだよと吹き込んだからだ。彼の親戚や友人は、メアリーが沼の狐の手柄について話を聞かされる度にいつも頬を紅潮させ目を輝かせて聞いていたと知らせた。 マリオンがサウウカロライナ議会で数期を務めた後の1784年、彼の功績に報いてジョンソン砦の指揮官に任命された。実際には儀礼的な肩書きで年収500ドルのものだった。マリオンは最初は500ポンドを貰うものと思っていたが、当時の経済情勢に怯えていた政治家達が500ドルに減じてしまった。マリオンは1795年彼の農園で死んだ。
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