アメリカ独立戦争の開戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 09:47 UTC 版)
「チカマウガ戦争」の記事における「アメリカ独立戦争の開戦」の解説
1776年、デトロイトのイギリス知事ヘンリー・ハミルトンの要請もあって、ショーニー族酋長コーンズトークは、北部から南部までのインディアン部族の代表を連れて、チェロキー族指導者とチョタ集落で会い、ケンタッキーに無断で入植していた者達に対する協働行動を呼びかけた。コーンズトークはその演説の最後にその「戦いの帯」を差し出し、ドラッギング・カヌーがチルハウイー集落のアブラハムと共に受け取った。ドラッギング・カヌーはオタワ族とイロコイ族からも帯を受け取り、チョタのレイブンはデラウェア族から帯を受け取った。 攻撃は3つの部隊に分かれて行うように作戦が立てられた。ノースカロライナの諸部族がサウスカロライナへ、サウスカロライナ西部と北部ジョージアからジョージアへ、リトルテネシー川とハイワシー川からバージニアとノースカロライナへというものだった。しかし、無断入植者達はチョタからやってきた旅人に前もって警告を受けていた。その警告はチェロキー族の指導者に与えられる肩書き「ビラブド・ウーマン」(Beloved Woman)であるナンシー・ウォードから発せられていた。この裏切りがあって、チェロキー族の攻撃は悲惨なものとなり、ドラッギング・カヌーは脚を銃弾で粉々に打ち砕かれ、弟のリトルオウルは11発も銃弾を受けたが奇跡的に命を取り留めた。 その後の植民地からの反応は素早く圧倒的なものであった。ノースカロライナは2,400名の民兵を送り、オコノフティー川やタカセギー川、およびリトルテネシー川やハイワシー川の水源地帯を隈無く捜索した。サウスカロライナはサバンナ川に1,800名を送り、ジョージアはチャタフーチー川とツガルー川に200名を派遣した。これらの部隊は50以上の集落を破壊し、家や食料を焼き、果樹園を壊し、家畜を殺し、さらに数百名のインディアンを殺すと共に生き残った者は奴隷競売台に送った。 一方でバージニアはノースカロライナの志願兵と共にウィリアム・クリスチャンの指揮で大部隊をリトルテネシー川下流に派遣した。ドラッギング・カヌーは女子供、老人をハイワシー川から待避させ、集落を焼き、フレンチ・ブロード川でバージニア兵を待ち伏せしようと考えたが、オコノストタとアタクラクラそれに他の年取った首長達がそのやり方に反対した。
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