アメリカ独立戦争中の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 04:45 UTC 版)
「帆船時代の海戦戦術」の記事における「アメリカ独立戦争中の発展」の解説
イギリス軍もフランス軍も海戦における認められた戦法に士官達が満足できないようになった。18世紀後半、アメリカ独立戦争中の多くの戦闘でこの問題が論じられた。海戦で決着を付けるためには、敵の戦列の一部、できれば後ろを集中攻撃すべきであることが明らかとなった。戦列の中央部は方向転換しなければその支援を行うことができないからである。 偉大なフランスの提督シュフランは、それまでの海軍戦術を、実戦を避ける言い訳と大差ないと喝破した。彼は、より良い方法を見つけようと努め、1782年と1783年に東インドでイギリス艦隊との間に交わした戦闘では、敵の戦列の一部分への集中攻撃を行った。サドラスの海戦ではイギリス戦列の後衛に2倍の戦力を集中した。しかし、彼の命令は守られず、彼の敵エドワード・ヒューズは有能であり、フランス艦隊の質もイギリスを上回ってはいなかった。 同じように、イギリスのジョージ・ロドニー提督は、1780年西インド諸島のマルティニーク島の海戦で、フランスの戦列の後部に多数のイギリス艦を向かわせることによって戦力の部分集中を図った。しかし、彼の命令は誤解され、適切に実行されなかった。さらに彼は、風上にいる自らの艦隊を風下の少数の敵艦に向かわせるにあたり、2ケーブル(=鏈(れん)。1鏈は720フィート=219.5m)より近くへは行かせないようにした。戦列の接近コースは単純明白であって回避可能であり、また風下もがら空きだったため、敵はみな退避してしまった。シュフランと同じくロドニーも偉大な戦術家であったが、一緒に働くには難儀な男であり、部下への意思疎通を欠いていた。 1782年4月12日、セインツの海戦でジョージ・ロドニーは、風向きが変わってフランスの戦列が崩れたことにより、自ら戦列を崩して敵の戦列に割って入る形となった。その効果は決定的だった。フランスの戦列を3箇所で分断したイギリス艦隊は手近のフランス艦に砲火を集中したため、フランス艦隊の戦術的連携は崩壊した。戦闘の終了までに、ロドニーはフランスの旗艦を含む4隻の敵艦を捕獲した。戦闘中は戦列を厳守するという昔からの戦術から離れることで成し遂げたこの成功により、そのオーソドックスな戦術の権威は失墜した。
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