セントリージャーの遠征隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:43 UTC 版)
「サラトガ方面作戦」の記事における「セントリージャーの遠征隊」の解説
詳細は「スタンウィックス砦包囲戦」および「オリスカニーの戦い」を参照 セントリージャー中佐の部隊はセントローレンス川を遡り、オンタリオ湖を横切り、無事にオスウェゴに到着した。彼の部隊は300人の正規軍と650人のカナダ人ロイヤリスト民兵であり、さらにジョン・バトラーとイロコイ族の戦闘指導者ジョセフ・ブラント、サイェンクラータおよびコーンプランターに率いられた1,000人のインディアンが加わった。7月25日にオスウェゴを離れ、スタンウィックス砦に向けてモホーク川を下り、8月2日にはその包囲戦を始めた。約800人のトライオン郡民兵と同盟インディアンが包囲を破ろうとしたが、8月6日の血腥いオリスカニーの戦いでイギリス軍とインディアンの待ち伏せに合い蹴散らされた。アメリカ軍は戦場を死守したが、その指揮者であるニコラス・ハーキマー将軍が致命傷を負ったのを始め、蒙った甚だしい損失のために撤退した。イロコイ連邦の戦士はこの戦闘で両軍に分かれて戦い、連邦内の内戦の始まりとなった。オリスカニーの戦いの間に、包囲されていたアメリカ軍がスタンウィックス砦から出撃し、近くのがら空きだったインディアン宿営地を襲撃した。オリスカニーで大きな損失を受けたことと組み合わされて、インディアンの士気には大きな打撃になった。 8月10日に、ベネディクト・アーノルドがスカイラーの北部方面軍から800名を割いてスタンウィックス砦に向け、スティルウォーターを出発した。8月21日に到着したデイトン砦の近くでトライオン郡民兵を募ることができると期待していた。彼はそこでほんの100人しか民兵を募れなかったので、調略に頼ろうとした。彼はロイヤリストの捕虜を逃がしてセントリージャーにアーノルドが既に持っているよりも大軍でやってくると伝えさせた。この知らせにセントリージャー部隊からブラント以下インディアンの部隊が抜けた。インディアンは持っていた物資の大半も持ち出しており、セントリージャーはオスウェゴを通ってケベックに戻らざるを得なくなった。アーノルドは一部の部隊に近道をして彼らを追わせ、残りの部隊でサラトガの大陸軍に合流するために向かった。セントリージャーの残っていた兵士は最終的に9月27日にタイコンデロガ砦に到着した。その到着は効果的にバーゴインを支援するには遅すぎた。バーゴインの軍隊はその周りで数を増すアメリカ軍のために既に孤立していた。
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