オリスカニー
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オリスカニー (Oriskany)
- 1 オリスカニーとは
- 2 オリスカニーの概要
オリスカニー
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「スタンウィックス砦包囲戦」の記事における「オリスカニー」の解説
詳細は「オリスカニーの戦い」を参照 ニューヨーク植民地のトライアン郡安全委員会は、7月30日にセントリージャー隊の動きについて情報を取得し、応援部隊の結成に取り掛かった。8月4日、トライアン郡の約800名がデイトン砦(現在のニューヨーク州ハーキマー近く)に集結した。指揮官は委員会議長のニコラス・ハーキマーだった。翌日遅く、この部隊はスタンウィックス砦から10マイル (16 km) にまで到着した。これを知ったセントリージャーは、ジョンソンに少数の正規兵とレンジャーズ、さらにはブラントとインディアンの大半を付けて、ハーキマー隊の進行を阻止するために派遣した。この部隊が待ち伏せを行ったオリスカニー・クリーク近くでの戦いでは、両軍共にかなりの損失を出し、ハーキマーはその足に重傷を負った。大陸軍はセントリージャーの分遣隊を後退させたが、ハーキマー隊は損失が大きかったためにデイトン砦までの後退を強いられた。ハーキマーはこの時の傷がもとで死んだ。この戦闘の間にセントリージャーにとっては別の損害も受けた。ガンズヴォートの守備隊は敵のかなりの勢力が不在になったときに付け込んで出撃した。ガンズヴォートの副司令官マリナス・ウィレットが250名の兵士を率いて出て、ほとんど空になっていたインディアンの宿営地を襲撃し、ジョン・ジョンソンの命令簿、遠征の作戦書、ガンズヴォートの許婚者からイギリス軍が奪っていた手紙を含め、「荷車数両の戦利品」を略奪した。この部隊が荷車一杯の物資を回収したという話はおそらく真実ではない。これはマリナス・ウィレットが後半生で書いた回想記によるものであり、出撃当時の証言ではない。ウィレットの初期の日誌には荷車の記述が無い。 イギリス軍分遣隊がオリスカニーから戻ると、インディアンの所持品や寝るときの毛布までその宿営地から多くのものがなくなっていた。オリスカニーの戦いではインディアン戦士が多く倒れていたこともあって、このことはインディアンをひどく動揺させた。彼らはそれまでほとんど戦っていなかった白人が、これからの戦闘の大半を行うことになるとも告げられていた。このようにインディアンとセントリージャーの間の信頼関係に裂け目が生じたことで、最終的に包囲戦を失敗させることになった。 セントリージャーはオリスカニーでの勝利をネタに再度砦の降伏を要求したが、ガンズヴォートはこれも拒否した。翌日、セントリージャーは3度目の降伏を要求する使者を送ったが、これにはオールバニにバーゴイン軍がいることと、インディアンには砦の虐殺を許可し、守備隊の出身であるモホーク川流域の町を破壊する許可も与えたという虚偽の情報も伝えていた。砦のウィレット中佐は「貴方はその制服からイギリス軍士官である。よって貴方がもたらした伝言はイギリス軍士官の評判を落とすものであり、イギリス軍士官が持っている評判に決して値するものではないと告げさせていただきたい」と雄弁に応えた。 イギリス軍の使節が提案した3日間の休戦を生かしたガンズヴォートは、火薬が不足してきていたので、8月10日にスカイラーのもとにウィレットを派遣して現状を説明させることにした。ウィレットはイギリス軍の前線を抜けてモホーク川を下り、ベネディクト・アーノルド少将が指揮する救援部隊に落ち合った。
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