首都の移転とは? わかりやすく解説

首都の移転

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 02:25 UTC 版)

ルーム・セルジューク朝」の記事における「首都の移転」の解説

ドリュラエウムの戦いの後、ルーム・セルジュークアナトリア中央の高原地帯後退するが、領地接すダニシュメンド朝マラティヤ帰属巡って争うことになる。ニカイア代わる新たな首都定められコンヤ1101年から1102年にかけてダニシュメンド朝包囲され一時的に占領された。 他方マリク・シャー没後イランイラクでは後継を巡る混乱続いており、クルチ・アルスラーンはイラクへの進出計画した1106年マラティヤとマイヤーファーリキーン(現在のシルワーン(英語版))がルーム・セルジューク支配下入り1107年セルジューク朝のスルターン・ムハンマド・タパルに反抗するモースル(マウスィル)の住民招聘されてクルチ・アルスラーンは同地入城する。入城後にクルチ・アルスラーンは金曜礼拝のフトバ(英語版)からムハンマド・タパルの名前を削り代わりに自身の名前を入れて読み上げさせた。同年7月ムハンマド・タパル派遣したアミール・チャヴルとハーブール河畔衝突するが、戦闘ルーム・セルジューク側の敗戦終わり、クルチ・アルスラーンは敗走中に溺死するクルチ・アルスラーン1世死後彼の5人の子王位巡って争い内訌介入したビザンツダニシュメンド朝によって領土一部奪われるクルチ・アルスラーン1世の子一人マリク・シャービザンツ攻撃する成果挙げられず、1116年ダニシュメンド朝同盟した弟のマスウード1世によって廃位された。マスウード1世はダニシュメンド・ガーズィの没後混乱するダニシュメンド朝攻撃しアンカラチャンクル占領した1147年第2回十字軍アナトリア上陸した折、マスウード1世フランスルイ7世神聖ローマ帝国コンラート3世破り西欧諸国計画破綻させた。1153年小アルメニア王国トロス2世英語版)、1154年ビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノスルーム・セルジュークの間に盟約結ばれ、それから間も無くマスウード没したマスウードの跡を子のクルチ・アルスラーン2世継いで以降西アジア史におけるルーム・セルジューク朝重要性増していく。

※この「首都の移転」の解説は、「ルーム・セルジューク朝」の解説の一部です。
「首都の移転」を含む「ルーム・セルジューク朝」の記事については、「ルーム・セルジューク朝」の概要を参照ください。

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