ポルトガル王国の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 05:54 UTC 版)
「ポルトガルの歴史」の記事における「ポルトガル王国の成立」の解説
1112年にアンリが没した後、ガリシアの有力貴族ペドロ・フロイラス・デ・トラバはガリシアから分断された旧ポルトゥカーレ伯領を取り戻すため、息子のフェルナンド・ペレスをアンリの妻テレサと結婚させようとした。ガリシアの伸張を危惧するポルトゥカーレの貴族、聖職者はアンリの子アフォンソ・エンリケスを旗頭としてテレサに反乱を起こした。1128年6月24日にギマランイス近郊のサン・マメデの戦い(英語版)でポルトゥカーレ軍はガリシア軍を破り、テレサはガリシアに逃亡した。新たに伯となったアフォンソはイベリア半島南部でのレコンキスタを進めて領土を広げるため、1131年ごろにギマランイスからコインブラに遷都した。 1137年にアフォンソはカスティーリャ=レオン皇帝アルフォンソ7世とトゥイ条約を締結し、アルフォンソ7世への臣従と引き換えにポルトガル北部の国境を取り決めた。1139年のオーリッケの戦いでムラービト朝に勝利を収めたアフォンソは南部に勢力を広げ、同時にガリシアに侵入してアルフォンソ7世に王位の承認を要求した。1143年に締結されたサモーラ条約によってアフォンソの臣従を条件として王号が認められ、アフォンソ1世を創始者とするブルゴーニュ(ボルゴーニャ)王朝ポルトガル王国が創始された。アフォンソ1世はサヴォイア伯家、フランドル伯家と婚姻関係を結び、ローマ教皇への従属を誓って外交関係を構築した。1147年にサンタレンを征服し、パレスチナに向かう途上でポルトに寄港した十字軍兵士の支援を受けてリスボンを征服する。1179年に教皇庁によってポルトガル王位が承認される。1211年のナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教勢力はムワッヒド朝に勝利し、レコンキスタは急速に進展する。 アフォンソ1世の死後、王権の強化を推進する国王とそれに反発する貴族・聖職者の間に対立が起きる。1245年にサンシュ2世がローマ教皇によって廃位された後、新たに王位に就いたアフォンソ3世はポルトガルの秩序の回復に努めた。1249年にアフォンソ3世はアルガルヴェ東部のファロとシルヴェスをイスラーム勢力から奪回し、ポルトガル内のレコンキスタを完了させる。1254年にはこれまで貴族と聖職者のみが参加していたコルテス(身分制議会)に平民の代表の参加が認められた。翌1255年、コインブラに代わってリスボンがポルトガル王国の首都機能を持ち始める。
※この「ポルトガル王国の成立」の解説は、「ポルトガルの歴史」の解説の一部です。
「ポルトガル王国の成立」を含む「ポルトガルの歴史」の記事については、「ポルトガルの歴史」の概要を参照ください。
ポルトガル王国の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 02:39 UTC 版)
「アフォンソ1世 (ポルトガル王)」の記事における「ポルトガル王国の成立」の解説
1131年にアフォンソは首都を生地のギマランイスからコインブラに移し、コインブラを拠点としてレコンキスタを指導した。首都の移転により、ミーニョ地方の貴族の影響下から脱することができた。 1135年にアルフォンソ7世は「全ヒスパニアの皇帝」を自称したが、アフォンソは皇帝の即位の式典に姿を現さなかった。1137年にトゥイでアフォンソはアルフォンソ7世と条約を結び、臣従を誓うが、両者の関係は間も無く悪化する。 アフォンソはカスティーリャ=レオンのほかに南部のイスラム勢力とも戦い、領土を広げた。1139年7月25日にオーリッケの戦いでムラービト朝に大勝を収めた後、アフォンソはポルトガル王を称した。オーリッケの勝利後、アフォンソはゲルマン人の習慣にのっとって楯の上に立ち、喜びに沸く戦場の全ての騎士から王に選出されたと伝えられている。後世、オーリッケの戦いにおいて、アフォンソが十字架上のイエス・キリストから勝利の予言を受けた建国神話が作られる。国王を称したアフォンソは独立を勝ち取るため、主君であるカスティーリャ=レオン王国と争った。 1143年、カトリック教会の仲介によってサモラ条約でポルトガルとカスティーリャ=レオンとの和平が成立する。この条約によってカスティーリャ=レオンへの軍事援助が条件として課せられ、ポルトガル王国の独立が承認された。皇帝を名乗るアルフォンソ7世にとって、王の称号を持つアフォンソを臣下に置くことは自身の権威を高めることにつながるため、アフォンソの称号の使用は容認できるものだった。そして、アルフォンソ7世はポルトガル王国もナバラ王国やアラゴン王国と同じようにカスティーリャ=レオンの宗主権をある程度認めていると考えたが、アフォンソはカスティーリャ=レオンから独立した君主として振る舞った。 アフォンソはカスティーリャ=レオンと対等の地位に立つためにローマ教皇に封臣的な従属を誓い、1145年にサモラ条約に同席した教皇の特使を通じてポルトガル領土を寄進する「封建申請書」を提出した。教皇に自身と子孫の臣従のほか、毎年4オンス(約120g)の金の寄進を約束した。しかし、この行動はアフォンソの主君にあたるアルフォンソ7世への裏切りにあたり、イベリア半島のキリスト教徒の団結を望む教皇にとって望ましいものではなかった。アルフォンソ7世は教皇ルキウス2世の寵愛を受けており、ルキウス2世はアフォンソの行動を褒めて寄進を受け取ったものの、王の称号と王国は認めなかった。
※この「ポルトガル王国の成立」の解説は、「アフォンソ1世 (ポルトガル王)」の解説の一部です。
「ポルトガル王国の成立」を含む「アフォンソ1世 (ポルトガル王)」の記事については、「アフォンソ1世 (ポルトガル王)」の概要を参照ください。
- ポルトガル王国の成立のページへのリンク