ポルトガル王国の発展と衰退、アヴィス王朝の成立
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ディニス1世の治世にポルトガル王権の強化、経済活動は最盛期を迎える。国内外の貿易活動が活性化し、特にフランドル地方、イギリス、フランスを相手とする交易が盛んに行われていた。リスボン、ポルトの商人が海上貿易において主要な役割を果たし、立地と良港に恵まれたリスボンはポルトガル南北地域の統合と経済活動の中心地となる。レコンキスタの達成によって地中海の自由な航行が可能になるとイタリアの商人がポルトガルに進出するようになるが、特にジェノヴァの商人は商業と航海技術に大きな影響を与え、1317年にジェノヴァ人マヌエル・ペサーニャによってポルトガルに海軍が創設される。1312年にテンプル騎士団が廃止された後、ディニスは1317年にキリスト騎士団を新設してポルトガル国内のテンプル騎士団の財産を移管し、富の国外への流出を未然に防いだ。また、1290年にはコインブラ大学の前身となる法学者の養成を兼ねた学校がリスボンに開設される。 レコンキスタの進展に伴ってドーロ川以北で話されていたガリシア・ポルトガル語がテージョ川以南のルシタニア・ムデハル語と融合し、ガリシア・ポルトガル語から分化したポルトガル語が成立する。ディニス1世による公文書のラテン語からポルトガル語への転換、南フランスで活躍していたトルバドゥール(吟遊詩人)の活動は、ポルトガル語の確立に大きな役割を果たした。 1340年代にヨーロッパ・北アフリカを襲った黒死病(ペスト)は1348年秋にポルトガルでも流行し、ポルトガルの人口のおよそ3分の1が減少したと推定されている。黒死病の流行は農業労働力の減少をもたらし、歳入の減少と貴金属の不足に対する応急処置として悪貨が鋳造されたため、都市下層民の生活に大きな負担がのしかかった。農村人口の減少と移動への対処として1349年から農民を土地に拘束する強制就労法が施行され、その中でも1375年のセズマリア法は有名であるが、十分な成果は上がらなかった。ポルトガル王フェルナンド1世はカスティーリャの王位継承権を主張して3度の軍事行動を実施するが、ポルトガルの大敗に終わる。和約によってフェルナンド1世の唯一の子供である王女ベアトリスはカスティーリャ王フアン1世と結婚したため、ポルトガルがカスティーリャに併合される可能性が現れる。戦争の敗北に加えて教会大分裂(大シスマ)も国内の混乱を悪化させ、聖職者と一般の信徒は2つの立場に分かれて対立する。 1383年にフェルナンド1世が没した後、カスティーリャに嫁いでいた王女ベアトリスがポルトガル王位に就き、ベアトリスの母レオノールが摂政となる。反レオノール派はペドロ1世のアヴィス騎士団長ドン・ジョアンを担ぎ出し、ポルトガルは大貴族を中心とするレオノール派と中小貴族、ブルジョアジーを中心とするジョアン派に二分された。レオノールはカスティーリャに援軍を要請し、1384年2月にリスボンはカスティーリャ軍の包囲を受ける。リスボン市民はジョアンを「王国の統治者、防衛者」に選出してカスティーリャの攻勢に抵抗し、ジョアン派はリスボンの防衛に成功する。1385年4月にコインブラで開催されたコルテスでジョアンはポルトガル王に選出され、彼を創始者とするアヴィス王朝が成立した。同年8月のアルジュバロータの戦いでポルトガル軍はカスティーリャ軍に勝利し、国家の独立を守り抜いた。
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