ポルトガル海外軍とギニア・カーボベルデ独立アフリカ党
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「ギニアビサウ独立戦争」の記事における「ポルトガル海外軍とギニア・カーボベルデ独立アフリカ党」の解説
ギニアでの戦争は「ポルトガルのベトナム」と言われた。主要独立運動勢力はマルクス主義のギニア・カーボベルデ独立アフリカ党で、訓練や統率も優れており、セネガルやコナクリと言った近隣国の安全な港を経由して多くの援助を受けていた。ギニアの密林と国境近くの党の同盟勢力は、ゲリラの越境攻撃や補給任務を大いに助けた。1963年1月にゲリラが首都ビサウ南方のコルバル川近くのティテのポルトガル人守備隊を攻撃した事が戦争のきっかけになった。植民地中で同様のゲリラ攻撃が急速に広まり、特に南部が激しかった。1965年には戦争は東部にも広がり、同年には党は北部も攻撃するようになった。当時北部では小規模独立勢力のギニア独立解放戦線(FLING)が展開していた。この時までにアミルカル・カブラル率いる党は堂々と中国やキューバ、ソ連から支援を受けるようになった。 党がゲリラ作戦を成功させた事で、ポルトガル領ギニアに配備されているポルトガル海外軍は前半は防戦的で、後半は保持している領土や都市を守る事に専念した。他のポルトガル領アフリカとは異なり、ポルトガル軍による反ゲリラ作戦はギニアではあまり成功しなかった。防衛作戦では少数の兵士が重要な建物、農場、インフラに配備された事はポルトガル歩兵にとって特に破壊的であり、人口密集地の外では党のゲリラ攻撃の良い的だった。地方での党の同調者と加入者の増加もポルトガル軍の士気を挫いた。比較的短期間で、党はポルトガル軍の戦力を削ぎ、ポルトガルによる支配地域をギニアの狭い地域に押し込める事に成功した。「解放領土」の現地ギニア人がポルトガル人土地所有者への借金の支払いや植民地行政府への税金の支払いを止めた事もこの成功の裏に見られる。党の支配地域にある統合製造会社(CUF)の支部は接収され、党支配地域でのポルトガル通貨の使用は禁止された。解放領土での経済を維持する為に、党は早くにマルクス主義の行政府と官僚組織を創った。それは農業製造や政府の破壊から穀物を守る教育された農場労働者、農業生産物と引き換えに直ちに必要な道具や物資を供給する「人民倉庫」から成った。1967年までに党はポルトガル軍の兵舎や宿営地に147回の攻撃を行い、ポルトガル領ギニアの2/3を支配するに至った。1968年、ポルトガルはアントニオ・デ・スピノラ新将軍を迎えて新たな対ゲリラ作戦を始めた。スピノラ将軍は一連の軍事改革を行い、まずは党の地方における支配地域を奪い返す事にした。現地人の信用を勝ち取る為の「勝利の精神」広報作戦や、反抗的な現地ギニア人の抹殺、学校・病院・通信網・道路網等の大規模建設事業、現地ギニア人をポルトガル軍に大量雇用する「アフリカ化」戦略等がある。
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