ポルトガル独立と政略結婚
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「キャサリン・オブ・ブラガンザ」の記事における「ポルトガル独立と政略結婚」の解説
1638年11月25日、キャサリンはポルトガルのリスボンで、後のポルトガル国王ジョアン4世(当時はブラガンサ公)とその妻ルイサ・フランシスカ・デ・グスマン(メディナ・シドニア公の娘)との次女カタリナとして誕生した。ちなみに、彼女の母方の血筋を辿っていくと、チェーザレ・ボルジアの弟ガンディア公フアンにたどり着く。 父ブラガンサ公ジョアンは、1640年12月1日にポルトガル国民の圧倒的支持を受けてスペインからの独立を宣言し、ブラガンサ朝を開いて、後に改革王(葡: o Restaurador)と呼ばれるようになる。しかし、この独立でスペインとの長期にわたる戦争(ポルトガル王政復古戦争)が始まり、ポルトガル一国では対処できない事態になっていった。そこでジョアン4世は当初、スペインと敵対関係にあったフランスとの同盟を1641年6月1日に結ぶが、1659年にフランスがスペインとの和平を実現させたピレネー条約によってこの同盟関係は無力化し、ポルトガルの独立は危うくなっていった。 ジョアン4世が次に目をつけたのがイングランドとの同盟である。そのためジョアン4世は、娘カタリナを8歳年上のチャールズ王太子(後のチャールズ2世)に嫁がせ、両国間の同盟関係の樹立を図るべく奔走することとなった。この縁談はカタリナが生まれた頃から画策され、1640年12月1日に婚約が交わされていた。しかし、その後イングランドでのピューリタン革命に伴う混乱によって長らく棚上げとなっていた。これが実現するのは1660年のイングランドにおける王政復古の後である。こうして1662年5月21日に2人はポーツマスで結婚した。さらに、この結婚によって北アフリカのタンジールとインドのボンベイ(現・ムンバイ)が持参金としてイングランドにもたらされた。この2つの土地は、後年イギリスの海外進出の拠点として重要な位置を占めることとなる。そして莫大な持参金はイングランドが抱える負債の問題も解決されたほどのものであった。
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