ポルトガル独立と政略結婚とは? わかりやすく解説

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ポルトガル独立と政略結婚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 08:55 UTC 版)

キャサリン・オブ・ブラガンザ」の記事における「ポルトガル独立と政略結婚」の解説

1638年11月25日キャサリンポルトガルリスボンで、後のポルトガル国王ジョアン4世当時ブラガンサ公)とその妻ルイサ・フランシスカ・デ・グスマン(メディナ・シドニア公の娘)との次女カタリナとして誕生したちなみに、彼女の母方血筋辿っていくと、チェーザレ・ボルジアの弟ガンディアフアンにたどり着く。 父ブラガンサ公ジョアンは、1640年12月1日ポルトガル国民圧倒的支持受けてスペインからの独立宣言しブラガンサ朝を開いて、後に改革王(葡: o Restaurador)と呼ばれるうになる。しかし、この独立スペインとの長期にわたる戦争ポルトガル王政復古戦争)が始まりポルトガル一国では対処できない事態になっていった。そこでジョアン4世当初スペイン敵対関係にあったフランスとの同盟1641年6月1日に結ぶが、1659年フランススペインとの和平実現させたピレネー条約によってこの同盟関係無力化しポルトガル独立危うくなっていったジョアン4世次に目をつけたのがイングランドとの同盟である。そのためジョアン4世は、娘カタリナ8歳年上チャールズ王太子(後のチャールズ2世)に嫁がせ、両国間の同盟関係樹立を図るべく奔走することとなった。この縁談カタリナ生まれた頃から画策され1640年12月1日婚約交わされていた。しかし、その後イングランドでのピューリタン革命に伴う混乱によって長らく棚上げとなっていた。これが実現するのは1660年イングランドにおける王政復古後である。こうして1662年5月21日2人ポーツマス結婚した。さらに、この結婚によって北アフリカタンジールインドボンベイ(現・ムンバイ)が持参金としてイングランドもたらされた。この2つ土地は、後年イギリス海外進出拠点として重要な位置占めることとなる。そして莫大な持参金イングランド抱え負債問題解決されたほどのものであった

※この「ポルトガル独立と政略結婚」の解説は、「キャサリン・オブ・ブラガンザ」の解説の一部です。
「ポルトガル独立と政略結婚」を含む「キャサリン・オブ・ブラガンザ」の記事については、「キャサリン・オブ・ブラガンザ」の概要を参照ください。

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