ポルトガル植民地時代とは? わかりやすく解説

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ポルトガル植民地時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/17 15:58 UTC 版)

サントメ・プリンシペの歴史」の記事における「ポルトガル植民地時代」の解説

1469年アフリカ西端位置する無人島であったサントメ島プリンシペ島ポルトガル人初め到来した3年以上、この2つ無人島探索した後、ポルトガル航海者たちは、この島々アフリカ本土へ寄港地として好適であると結論した。こうして両島ポルトガルの植民地となった初め入植成功したのはポルトガル下級貴族であったアルヴァロ・デ・カミニャとアントニオ・カルネイロの二人であり、1490年代末のことであった。カミニャは1493年サントメ島入植しポルトガル王室(アヴィス王朝)から島の所有権認められた。1510年にはプリンシペ島貴族のジョルジェ・メロ率い入植団が上陸した初期の入植者ポルトガルからの流刑囚、職人貧民からなり、彼らはキリスト教強制改宗させられユダヤ人伴っていた。入植者ほどなく島の火山灰質の土壌が、サトウキビ栽培好適であることに気付いた。しかし、両島入植したヨーロッパ出身者熱帯気候に耐えられずに倒れていったため、フェルナンド・ポ島とアフリカ大陸から黒人奴隷サトウキビ栽培牧畜為に導入された。ポルトガル出身女性両島には訪れなかったため、カーボベルデ諸島同様に、数世代後には白人と黒人混血ムラート)の支配層築かれた。サントメ島には1504年最初教区置かれ1534年には司教区への昇格と共に市政移行し、また両島1522年カピタニア廃止され王領戻りポルトガル行政機構編入された。 両島アフリカブラジルを結ぶ奴隷貿易中継拠点としても栄えたコンゴ王国国王アフォンソ1世は、サントメ島領主フェルナンド・メロの強欲と、サントメ島にてコンゴ王国から連行され住民奴隷として酷使されていることを憂慮しポルトガル王マヌエル1世に対して、同島を封土として引き渡すように要求した。しかし、ポルトガルはこのコンゴ王の要求無視したため、アフォンソ1世1526年よりジョアン3世宛てて幾度か手紙書きコンゴ王国蝕む奴隷貿易中止するように訴えたポルトガル王がこの訴え無視した為、コンゴアフォンソ1世ローマ教皇パウルス3世手紙送り1535年教皇パウルス3世から事態善処する旨の返事得たものの、実際にカトリック教会による奴隷貿易への対策はなされなかった。 1570年代サントメ島世界有数砂糖産地となり、1602年には4アロバ(約600トン)の砂糖生産された。しかし、ポルトガル領ブラジルとの砂糖生産競合オランダイギリス海賊攻撃奴隷反乱等の複合的な進行によってサントメ島17世紀前半中に急速に衰退したまた、17世紀前半のポルトガル・オランダ戦争最中オランダサントメ島上陸したものの、1648年アンゴラからオランダ勢力駆逐したサルヴァドル・コレイア・デ・サがサントメ島奪回した18世紀にはサントメ島プリンシペ島両島対すポルトガル国王統制は殆ど及ばずまた、フランス数度亘って両島攻撃した1800年ブラジルからコーヒーが、1822年カカオ導入された後、主にポルトガル人不在地主外国資本からなる農場主絶大な権力握り奴隷使役するプランテーション経営がなされ、1860年代以後両島経済急速に拡大1842年に約18コントに過ぎなかった両島輸出額は、1910年には8000コント以上に達した1842年ポルトガルイギリス奴隷貿易廃止する条約を結び、1856年奴隷の親から生まれた子の解放規定する法律が、1869年2月25日ポルトガル帝国全域奴隷制即時廃止する法律制定されサントメ・プリンシペ両島では1876年に公式に奴隷制度廃止された。しかし、奴隷制度廃止前後して1875年植民地原住民労働させるための「奉公人制」を定めた法律制定され1878年施行されたこの法律によって農業労働者依然として奉公人制と呼ばれる実質的な奴隷制の下に置かれ、さらに1885年から1903年にかけて51,689人の奉公人ポルトガル領アンゴラから両島導入された。この奉公人制はイギリスチョコレート業者ウィリアム・キャンドベリイの報告書によってアメリカ合衆国イギリスドイツ帝国などで大い問題にされ、反ポルトガルキャンペーンがなされた1910年10月5日革命によってポルトガル第一共和政成立すると、共和国政府1911年植民地省創設し新たな植民地行政では植民地住民文化的にポルトガル化した同化民」(アシミラド)とそれ以外の「原住民」に分け前者にはポルトガル市民同等権利認め後者には重労働強制したが、サントメ・プリンシペアンゴラモザンビークギニアティモールなどと同様にこの制度適用され大多数人々重労働課せられた。 第二次世界大戦後世界脱植民地化時代に入ると、国際社会からの植民地支配への非難恐れたアントニオ・サラザール政権1951年ポルトガルの「植民地」を「海外州」と呼び換え、他ポルトガルの植民地同様にサントメ・プリンシペは「海外州」となったしかしながら奴隷制度廃止以降続いた強制労働制度について慢性的な不満があり、これは1953年のバテーパの虐殺呼ばれる暴動頂点達した。この事件ではアフリカ人農業労働者多数ポルトガル人支配層により殺害された。この後独立運動始まり1960年9月にはガボン首都リーブルヴィルにてサントメ・プリンシペ解放委員会(CLSTP)が結成され1963年8月にCLSTPはプランテーション労働者ストライキ指導したサントメ・プリンシペ独立運動(MLSTP)がガボンリベリア拠点として活動した1968年にはポルトガル反体制派マリオ・ソアレスサラザールによってサントメ島流刑にされている。 1974年4月25日カーネーション革命によってサラザール樹立したエスタド・ノヴォ独裁体制倒れると、その後成立した新政権海外植民地放棄決め1975年7月12日にMLSTPの指導者マヌエル・ピント・ダ・コスタ初代大統領となり、サントメ・プリンシペ民主共和国独立達成した

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ポルトガル植民地時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/15 22:26 UTC 版)

カーボベルデの歴史」の記事における「ポルトガル植民地時代」の解説

15世紀まで無人島だったカーボベルデ諸島にて、人間の歴史が始まるのは1460年ポルトガル人入植以降である。カーボベルデ発見者その時期については諸説があり、1455年ジェノヴァ商人アントニオ・ダ・ノリポルトガル人航海者ディオゴ・アフォンソによる到達最初の発見だとする説、1456年ヴェネツィア人カダモストによる到達最初の発見だとする説など諸説存在する1462年植民地化開始されると、当初ポルトガル人マデイラ諸島アソーレス諸島行ったように、西アフリカからカーボベルデ奴隷移入して砂糖生産しようとしたが、この試みサヘル延長にある降らないカーボベルデ厳し気候や、土壌不毛さによって失敗した。しかし、サンティアゴ島リベイラ・グランデ現在のシダーデ・ヴェーリャ)は「新大陸の発見」後、インドブラジル西インド諸島アフリカイベリア半島を結ぶポルトガル船の寄港地となることに成功し、この役割のため、カーボベルデ植民地として存続することに成功した。しかし、この役割海賊引き寄せるのにも十分魅力的なものであり、1542年フランス海賊襲撃嚆矢に、1578年1585年にはイングランド海賊フランシス・ドレークによる襲撃が行われるなど、16世紀半ば以降海賊跳梁続いたカーボベルデ防衛のためにポルトガル王要塞建設し1587年にはリベイラ・グランデ総督設置した。しかし、総督府1652年プライア移動し以降リベイラ・グランデ衰退した16世紀から17世紀にかけてカーボベルデアフリカアメリカ大陸を結ぶ奴隷貿易中継地として栄え島内ではポルトガル人入植者男性黒人奴隷女性の間で混血進み今日まで続くクレオール的な社会形成された。 17世紀末から18世紀にかけてカーボベルデの経済停滞していたが、1757年カーボベルデ西アフリカ大陸部ポルトガル領ギニアがグラン・パラ=マラニャン会社委ねられる経済的な活性化進み無人島だったサント・アンタン島サン・ヴィセンテ島サン・ニコラウ島サル島への入植進んだ18世紀の間には、1712年1798年フランス海賊による襲撃があった。 19世紀に入ると、旱魃飢饉周期的に繰り返されるカーボベルデから、島外への移民進んだカーボベルデ人は19世紀前半からアメリカ合衆国マサチューセッツ州ロードアイランド州始めとするニューイングランド地方移住進めカーボベルデ系アメリカ人)、現在もアメリカ合衆国世界最大カーボベルデ人のディアスポラの地となっている。1880年代ポルトガル海運業発達すると、カーボベルデミンデロヨーロッパ南アメリカ中継する船舶新たな石炭補給港として栄えた20世紀に入ると、ポルトガルアンゴラギニアモザンビークティモールの各植民地で、住民ポルトガル語ポルトガル文化を身につけた同化民」(アシミラド)とそれ以外の「原住民」に分け前者にはポルトガル市民同等権利認め後者には重労働強制したが、カーボベルデインドマカオ住民にはこの「同化民」のカテゴリ設けられず、実質的にポルトガル市民同等であった宗主国ポルトガルでは1933年保守的反自由主義的なエスタド・ノヴォ体制構築したアントニオ・サラザール首相第二次世界大戦後政権握り続け1951年サラザール植民地呼称を「海外州」と呼び換え国際連合脱植民地化決議無視し、「海外州」の独立認めない方針強固に打ち出していた。カーボベルデ出身アフリカ人ナショナリストアミルカル・カブラルは1956年独立を目指してギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を結成し1958年ビサウにおける港湾ストライキ対すポルトガル当局虐殺以後武装闘争路線採用し1963年ポルトガル領ギニア独立戦争開始したPAIGC着々と解放区拡大し1968年11月にはポルトガル現地軍司令官のアントニオ・デ・スピノラ将軍マルセロ・カエターノ首相に軍事的勝利不可能だとして和平進言するほどであった1973年1月20日アミルカル・カブラル暗殺されたが、アミルカル・カブラルの弟のルイス・カブラル党首に、アリスティデス・ペレイラ書記長に就任したPAIGCポルトガル軍に対して猛攻撃仕掛け1973年10月24日PAIGCマディナ・ド・ボエギニア=ビサウ独立宣言し国際連合同年11月2日総会で、賛成多数ギニア=ビサウ独立承認したその後ギニア=ビサウ勤務したポルトガル軍軍人主体となって形成され国軍運動(MFA)が、1974年4月25日起こしたカーネーション革命によってエスタド・ノヴォ体制崩壊すると、新たに誕生したポルトガル左派政権植民地戦争終結させ、1975年中に植民地独立戦争戦ってきた組織独立後の国家建設託した

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ポルトガル植民地時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/25 22:23 UTC 版)

アンゴラの歴史」の記事における「ポルトガル植民地時代」の解説

1482年ポルトガル王国航海者ディオゴ・カン率い艦隊コンゴ川河口到達したカン一度去った後に、1485年ポルトガル国王親書携えてコンゴ王国再訪した。1491年コンゴンジンガ・ンクウポルトガルから派遣されキリスト教カトリック教会洗礼を受け、以後ポルトガル語洗礼名ジョアン1世名乗ったポルトガルからは宣教団に加えて各種技術者コンゴ王国派遣されコンゴ王国からも貴族ポルトガル渡った1506年ジョアン1世没した後、後継者争い勝利して後を継いだアフォンソ1世時代に、コンゴポルトガル両者誤解に基づく同盟により、コンゴ王国西欧化政策進んだアフォンソ1世法令から礼儀作法に至るまで大いポルトガル文物を採り入れ首都ンバンザ・コンゴサン・サルヴァドール改名し息子ローマ教皇の下に留学させた。しかし、徐々にポルトガル商人奴隷貿易王国影を落としていた。既にこの頃にはコンゴ王国内から連行され人々が、ポルトガル領だったサン・トメ島奴隷商人達によって砂糖栽培のために奴隷労働を行わされていたのであるアフォンソ1世マヌエル1世ジョアン3世ポルトガル王関心を示さなくなってから後は教皇パウルス3世サン・トメ島引渡し奴隷貿易停止書簡訴えたが、何れも功を奏することはなかった。 アフォンソ1世没後ポルトガルコンゴ支配はより露骨なものになり、1568年もしくは1569年)に沿岸部武装集団ジャガ英語版)がコンゴ王国侵攻した際に、ポルトガル援軍得てジャガ撃破したアルヴァロ王は復位したものの、この事件きっかけコンゴ王アルヴァロ1世英語版)はポルトガル王への忠誠を誓うことになり、両国対等な関係は終焉した。 1574年アンゴラパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスブラジル植民地英語版)の制度同様にカピタニアとして譲渡され、セズマリア制の下で統治された。翌1575年にはパウロ・ディアス・デ・ノヴァイス率い700人の植民団がアンゴラ到達し1576年植民地首都ルアンダ建設された。しかし、ブラジルほど土地が豊かではなく先住民激し抵抗繰り広げられアンゴラはまもなくブラジル奴隷供給するために存続することとなった1590年国王によってカピタニア制廃止された後、アンゴラ総督による直接統治が行われる植民地となり、1617年には総督のマヌエル・コルヴェイラ・ペレイラによってベンゲラ建設されるなど、徐々にポルトガルはその勢力沿岸部拡大していった。 ポルトガル総督要求され貢納拒否したマタンバ王国英語版)のアンネ・ジンガ・バンディ(ンジンガ女王英語版))は、1623年クーデターで兄の王から権力奪取し王国まとめてポルトガル対し反旗を翻したポルトガルスペイン同君連合組んでいた時期1598年からアフリカアジアブラジル北東部などのポルトガル海外植民地巡ってポルトガルオランダとの戦争繰り広げられており、1641年アンゴラ首都ルアンダオランダによって攻略されたこともあって、状況利用したンジンガ女王オランダ同盟を結び、オランダからンジンガ女王には500人のオランダ火縄銃兵が提供された。戦闘続いた後、サルヴァドル・コレイア・デ・サが率いブラジルから派遣されポルトガル軍1648年オランダ軍破ったことによりオランダアンゴラ離れその後もンジンガ女王抵抗続いたものの、最終的に両者1657年平和条約を結び、条約によってマタンバ王国独立貢納免除認められた。1661年ポルトガルオランダハーグ講和条約を結び、アンゴラブラジル北東部領有権認められオランダに400クルザード賠償金支払われた。 一方北部コンゴ王国は、1641年即位したガルシア2世英語版)の時代一時的に勢力回復したが、ガルシア2世没後王国混乱に陥り、1665年ルアンダから派遣されポルトガル勢力によって敗れたアントニオ1世殺害され以降王国名目上存在となった1671年にはンドンゴ王国ポルトガル保護領となり、1683年から1730年代までポルトガルは平和の下にアンゴラ諸王国を服属させ、17世紀から18世紀にかけてポルトガルブラジル向けの奴隷貿易拠点としてアンゴラ統治することに心を注いだ一方アンゴラから多く奴隷連行され厳し奴隷生活を余儀なくされたブラジルでは、ポルトガル人経営するプランテーションからの脱走成功した逃亡奴隷マルーン)たちが森の奥地に「キロンボ(英語版)」(逃亡奴隷集落)あるいは「アンゴラ・ジャンガ」(「小さなアンゴラ」)と呼ばれる集落築きこうしたキロンボの中でも特に有名なものであったキロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)は、黒人から不死身信じられ指導者パルマーレスのズンビ統治しブラジル植民地支配体制を脅かすほどであった1755年に後のポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ宰相就任しポルトガルに於ける啓蒙専制主義改革進められると、アンゴラに「第二ブラジル」の可能性見出したカルヴァーリョ総督フランシスコ・ソウザ・コウティニョの主導によって商工業奨励内陸部開発進められた。こうした改革失敗終わったものの、1790年以後経済進展進み内陸部開発でも19世紀初頭には大西洋岸アンゴラインド洋岸のモザンビーク陸路横断する探検成功した

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