ポルトガル植民地時代
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「サントメ・プリンシペの歴史」の記事における「ポルトガル植民地時代」の解説
1469年にアフリカの西端に位置する無人島であったサントメ島とプリンシペ島にポルトガル人が初めて到来した。3年以上、この2つの無人島を探索した後、ポルトガルの航海者たちは、この島々がアフリカ本土への寄港地として好適であると結論した。こうして両島はポルトガルの植民地となった。 初めて入植に成功したのはポルトガルの下級貴族であったアルヴァロ・デ・カミニャとアントニオ・カルネイロの二人であり、1490年代末のことであった。カミニャは1493年にサントメ島に入植し、ポルトガル王室(アヴィス王朝)から島の所有権を認められた。1510年にはプリンシペ島に貴族のジョルジェ・メロ率いる入植団が上陸した。初期の入植者はポルトガルからの流刑囚、職人、貧民からなり、彼らはキリスト教に強制改宗させられたユダヤ人を伴っていた。入植者はほどなく島の火山灰質の土壌が、サトウキビ栽培に好適であることに気付いた。しかし、両島に入植したヨーロッパ出身者は熱帯の気候に耐えられずに倒れていったため、フェルナンド・ポ島とアフリカ大陸から黒人奴隷がサトウキビ栽培と牧畜の為に導入された。ポルトガル出身の女性は両島には訪れなかったため、カーボベルデ諸島と同様に、数世代後には白人と黒人の混血(ムラート)の支配層が築かれた。サントメ島には1504年に最初の教区が置かれ、1534年には司教区への昇格と共に市政に移行し、また両島は1522年にカピタニアが廃止されて王領に戻り、ポルトガルの行政機構に編入された。 両島はアフリカとブラジルを結ぶ奴隷貿易の中継拠点としても栄えた。コンゴ王国の国王アフォンソ1世は、サントメ島の領主フェルナンド・メロの強欲と、サントメ島にてコンゴ王国から連行された住民が奴隷として酷使されていることを憂慮し、ポルトガル王マヌエル1世に対して、同島を封土として引き渡すように要求した。しかし、ポルトガルはこのコンゴ王の要求を無視したため、アフォンソ1世は1526年よりジョアン3世に宛てて幾度か手紙を書き、コンゴ王国を蝕む奴隷貿易を中止するように訴えた。ポルトガル王がこの訴えを無視した為、コンゴ王アフォンソ1世はローマ教皇パウルス3世に手紙を送り、1535年に教皇パウルス3世から事態に善処する旨の返事を得たものの、実際にはカトリック教会による奴隷貿易への対策はなされなかった。 1570年代にサントメ島は世界有数の砂糖の産地となり、1602年には4万アロバ(約600万トン)の砂糖が生産された。しかし、ポルトガル領ブラジルとの砂糖生産の競合、オランダとイギリスの海賊の攻撃、奴隷反乱等の複合的な進行によってサントメ島は17世紀前半中に急速に衰退した。また、17世紀前半のポルトガル・オランダ戦争の最中にオランダがサントメ島に上陸したものの、1648年にアンゴラからオランダ勢力を駆逐したサルヴァドル・コレイア・デ・サがサントメ島を奪回した。 18世紀にはサントメ島、プリンシペ島両島に対するポルトガル国王の統制は殆ど及ばず、また、フランスが数度に亘って両島を攻撃した。 1800年にブラジルからコーヒーが、1822年にカカオが導入された後、主にポルトガル人の不在地主と外国資本からなる農場主が絶大な権力を握り奴隷を使役するプランテーション経営がなされ、1860年代以後両島の経済は急速に拡大、1842年に約18コントに過ぎなかった両島の輸出額は、1910年には8000コント以上に達した。 1842年にポルトガルはイギリスと奴隷貿易を廃止する条約を結び、1856年に奴隷の親から生まれた子の解放を規定する法律が、1869年2月25日にポルトガル帝国全域で奴隷制を即時廃止する法律が制定され、サントメ・プリンシペ両島では1876年に公式に奴隷制度が廃止された。しかし、奴隷制度廃止と前後して1875年に植民地の原住民を労働させるための「奉公人制」を定めた法律が制定され、1878年に施行されたこの法律によって農業労働者は依然として奉公人制と呼ばれる実質的な奴隷制の下に置かれ、さらに1885年から1903年にかけて51,689人の奉公人がポルトガル領アンゴラから両島に導入された。この奉公人制はイギリスのチョコレート業者ウィリアム・キャンドベリイの報告書によってアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ帝国などで大いに問題にされ、反ポルトガルキャンペーンがなされた。 1910年10月5日革命によってポルトガル第一共和政が成立すると、共和国政府は1911年に植民地省を創設し、新たな植民地行政では植民地住民を文化的にポルトガル化した「同化民」(アシミラド)とそれ以外の「原住民」に分け、前者にはポルトガル市民と同等の権利を認め、後者には重労働を強制したが、サントメ・プリンシペもアンゴラやモザンビーク、ギニア、ティモールなどと同様にこの制度が適用され、大多数の人々に重労働が課せられた。 第二次世界大戦後、世界が脱植民地化時代に入ると、国際社会からの植民地支配への非難を恐れたアントニオ・サラザール政権は1951年にポルトガルの「植民地」を「海外州」と呼び換え、他ポルトガルの植民地同様にサントメ・プリンシペは「海外州」となった。しかしながら、奴隷制度廃止以降も続いた強制労働制度については慢性的な不満があり、これは1953年のバテーパの虐殺と呼ばれる暴動で頂点に達した。この事件ではアフリカ人農業労働者が多数、ポルトガル人の支配層により殺害された。この後独立運動が始まり、1960年9月にはガボンの首都リーブルヴィルにてサントメ・プリンシペ解放委員会(CLSTP)が結成され、1963年8月にCLSTPはプランテーション労働者のストライキを指導した。サントメ・プリンシペ独立運動(MLSTP)がガボンとリベリアを拠点として活動した。1968年にはポルトガル反体制派のマリオ・ソアレスがサラザールによってサントメ島に流刑にされている。 1974年4月25日にカーネーション革命によってサラザールが樹立したエスタド・ノヴォ独裁体制が倒れると、その後成立した新政権は海外植民地の放棄を決め、1975年7月12日にMLSTPの指導者マヌエル・ピント・ダ・コスタが初代大統領となり、サントメ・プリンシペ民主共和国は独立を達成した。
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ポルトガル植民地時代
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「カーボベルデの歴史」の記事における「ポルトガル植民地時代」の解説
15世紀まで無人島だったカーボベルデ諸島にて、人間の歴史が始まるのは1460年のポルトガル人の入植以降である。カーボベルデの発見者とその時期については諸説があり、1455年のジェノヴァ商人アントニオ・ダ・ノリとポルトガル人航海者ディオゴ・アフォンソによる到達が最初の発見だとする説、1456年のヴェネツィア人カダモストによる到達が最初の発見だとする説など諸説が存在する。 1462年に植民地化が開始されると、当初ポルトガル人はマデイラ諸島やアソーレス諸島で行ったように、西アフリカからカーボベルデに奴隷を移入して砂糖を生産しようとしたが、この試みはサヘルの延長にある雨の降らないカーボベルデの厳しい気候や、土壌の不毛さによって失敗した。しかし、サンティアゴ島のリベイラ・グランデ(現在のシダーデ・ヴェーリャ)は「新大陸の発見」後、インドやブラジル、西インド諸島、アフリカとイベリア半島を結ぶポルトガル船の寄港地となることに成功し、この役割のため、カーボベルデは植民地として存続することに成功した。しかし、この役割は海賊を引き寄せるのにも十分魅力的なものであり、1542年のフランス海賊の襲撃を嚆矢に、1578年と1585年にはイングランドの海賊フランシス・ドレークによる襲撃が行われるなど、16世紀半ば以降海賊の跳梁が続いた。カーボベルデ防衛のためにポルトガル王は要塞を建設し、1587年にはリベイラ・グランデに総督を設置した。しかし、総督府は1652年にプライアに移動し、以降リベイラ・グランデは衰退した。16世紀から17世紀にかけてカーボベルデはアフリカとアメリカ大陸を結ぶ奴隷貿易の中継地として栄え、島内ではポルトガル人入植者の男性と黒人奴隷の女性の間で混血が進み、今日まで続くクレオール的な社会が形成された。 17世紀末から18世紀にかけてカーボベルデの経済は停滞していたが、1757年にカーボベルデと西アフリカ大陸部のポルトガル領ギニアがグラン・パラ=マラニャン会社に委ねられると経済的な活性化が進み、無人島だったサント・アンタン島、サン・ヴィセンテ島、サン・ニコラウ島、サル島への入植が進んだ。18世紀の間には、1712年と1798年にフランス海賊による襲撃があった。 19世紀に入ると、旱魃と飢饉が周期的に繰り返されるカーボベルデから、島外への移民が進んだ。カーボベルデ人は19世紀前半からアメリカ合衆国のマサチューセッツ州やロードアイランド州を始めとするニューイングランド地方に移住を進め(カーボベルデ系アメリカ人)、現在もアメリカ合衆国は世界最大のカーボベルデ人のディアスポラの地となっている。1880年代にポルトガルの海運業が発達すると、カーボベルデのミンデロはヨーロッパと南アメリカを中継する船舶の新たな石炭補給港として栄えた。 20世紀に入ると、ポルトガルはアンゴラ、ギニア、モザンビーク、ティモールの各植民地で、住民をポルトガル語とポルトガル文化を身につけた「同化民」(アシミラド)とそれ以外の「原住民」に分け、前者にはポルトガル市民と同等の権利を認め、後者には重労働を強制したが、カーボベルデとインド、マカオの住民にはこの「同化民」のカテゴリは設けられず、実質的にポルトガル市民と同等であった。 宗主国のポルトガルでは1933年に保守的、反自由主義的なエスタド・ノヴォ体制を構築したアントニオ・サラザール首相が第二次世界大戦後も政権を握り続け、1951年にサラザールは植民地の呼称を「海外州」と呼び換えて国際連合の脱植民地化決議を無視し、「海外州」の独立を認めない方針を強固に打ち出していた。カーボベルデ出身のアフリカ人ナショナリストアミルカル・カブラルは1956年に独立を目指してギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を結成し、1958年のビサウにおける港湾ストライキに対するポルトガル当局の虐殺以後は武装闘争路線を採用し、1963年にポルトガル領ギニアで独立戦争を開始した。PAIGCは着々と解放区を拡大し、1968年11月にはポルトガル現地軍司令官のアントニオ・デ・スピノラ将軍がマルセロ・カエターノ首相に軍事的勝利は不可能だとして和平を進言するほどであった。1973年1月20日にアミルカル・カブラルは暗殺されたが、アミルカル・カブラルの弟のルイス・カブラルが党首に、アリスティデス・ペレイラが書記長に就任したPAIGCはポルトガル軍に対して猛攻撃を仕掛け、1973年10月24日にPAIGCはマディナ・ド・ボエでギニア=ビサウの独立を宣言し、国際連合も同年11月2日の総会で、賛成多数でギニア=ビサウの独立を承認した。その後、ギニア=ビサウで勤務したポルトガル軍の軍人が主体となって形成された国軍運動(MFA)が、1974年4月25日に起こしたカーネーション革命によってエスタド・ノヴォ体制が崩壊すると、新たに誕生したポルトガルの左派政権は植民地戦争を終結させ、1975年中に各植民地で独立戦争を戦ってきた組織に独立後の国家建設を託した。
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ポルトガル植民地時代
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「アンゴラの歴史」の記事における「ポルトガル植民地時代」の解説
1482年にポルトガル王国の航海者ディオゴ・カン率いる艦隊がコンゴ川の河口に到達した。カンは一度去った後に、1485年にポルトガル国王の親書を携えてコンゴ王国を再訪した。1491年にコンゴ王ンジンガ・ンクウはポルトガルから派遣されたキリスト教カトリック教会の洗礼を受け、以後ポルトガル語の洗礼名ジョアン1世を名乗った。ポルトガルからは宣教団に加えて各種技術者がコンゴ王国に派遣され、コンゴ王国からも貴族がポルトガルに渡った。 1506年にジョアン1世が没した後、後継者争いに勝利して後を継いだアフォンソ1世の時代に、コンゴとポルトガルの両者の誤解に基づく同盟により、コンゴ王国の西欧化政策は進んだ。アフォンソ1世は法令から礼儀作法に至るまで大いにポルトガルの文物を採り入れ、首都ンバンザ・コンゴをサン・サルヴァドールに改名し、息子をローマ教皇の下に留学させた。しかし、徐々にポルトガル商人の奴隷貿易が王国に影を落としていた。既にこの頃にはコンゴ王国内から連行された人々が、ポルトガル領だったサン・トメ島の奴隷商人達によって砂糖栽培のために奴隷労働を行わされていたのである。アフォンソ1世はマヌエル1世やジョアン3世、ポルトガル王が関心を示さなくなってから後は教皇パウルス3世にサン・トメ島の引渡しや奴隷貿易の停止を書簡で訴えたが、何れも功を奏することはなかった。 アフォンソ1世の没後、ポルトガルのコンゴ支配はより露骨なものになり、1568年(もしくは1569年)に沿岸部の武装集団ジャガ(英語版)がコンゴ王国に侵攻した際に、ポルトガルの援軍を得てジャガを撃破したアルヴァロ王は復位したものの、この事件をきっかけにコンゴ王アルヴァロ1世(英語版)はポルトガル王への忠誠を誓うことになり、両国の対等な関係は終焉した。 1574年にアンゴラはパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスにブラジル植民地(英語版)の制度と同様にカピタニアとして譲渡され、セズマリア制の下で統治された。翌1575年にはパウロ・ディアス・デ・ノヴァイス率いる700人の植民団がアンゴラに到達し、1576年に植民地の首都ルアンダが建設された。しかし、ブラジルほど土地が豊かではなく、先住民の激しい抵抗が繰り広げられたアンゴラはまもなくブラジルに奴隷を供給するために存続することとなった。1590年に国王によってカピタニア制が廃止された後、アンゴラは総督による直接統治が行われる植民地となり、1617年には総督のマヌエル・コルヴェイラ・ペレイラによってベンゲラが建設されるなど、徐々にポルトガルはその勢力を沿岸部に拡大していった。 ポルトガルの総督に要求された貢納を拒否したマタンバ王国(英語版)のアンネ・ジンガ・バンディ(ンジンガ女王(英語版))は、1623年にクーデターで兄の王から権力を奪取し、王国をまとめてポルトガルに対し反旗を翻した。ポルトガルがスペインと同君連合を組んでいた時期の1598年からアフリカやアジア、ブラジル北東部などのポルトガルの海外植民地を巡ってポルトガルとオランダとの戦争が繰り広げられており、1641年にアンゴラの首都ルアンダがオランダによって攻略されたこともあって、状況を利用したンジンガ女王はオランダと同盟を結び、オランダからンジンガ女王には500人のオランダ火縄銃兵が提供された。戦闘が続いた後、サルヴァドル・コレイア・デ・サが率いるブラジルから派遣されたポルトガル軍が1648年にオランダ軍を破ったことによりオランダはアンゴラを離れ、その後もンジンガ女王の抵抗は続いたものの、最終的に両者は1657年に平和条約を結び、条約によってマタンバ王国の独立と貢納の免除が認められた。1661年にポルトガルはオランダとハーグ講和条約を結び、アンゴラとブラジル北東部の領有権を認められ、オランダには400万クルザードの賠償金が支払われた。 一方北部のコンゴ王国は、1641年に即位したガルシア2世(英語版)の時代に一時的に勢力を回復したが、ガルシア2世の没後王国は混乱に陥り、1665年にルアンダから派遣されたポルトガル勢力によって敗れたアントニオ1世が殺害され、以降王国は名目上の存在となった。1671年にはンドンゴ王国もポルトガルの保護領となり、1683年から1730年代までポルトガルは平和の下にアンゴラの諸王国を服属させ、17世紀から18世紀にかけてポルトガルはブラジル向けの奴隷貿易の拠点としてアンゴラを統治することに心を注いだ。一方、アンゴラから多くの奴隷が連行され、厳しい奴隷生活を余儀なくされたブラジルでは、ポルトガル人の経営するプランテーションからの脱走に成功した逃亡奴隷(マルーン)たちが森の奥地に「キロンボ(英語版)」(逃亡奴隷集落)あるいは「アンゴラ・ジャンガ」(「小さなアンゴラ」)と呼ばれる集落を築き、こうしたキロンボの中でも特に有名なものであったキロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)は、黒人から不死身と信じられた指導者パルマーレスのズンビが統治し、ブラジルの植民地支配体制を脅かすほどであった。 1755年に後のポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョが宰相に就任し、ポルトガルに於ける啓蒙専制主義改革が進められると、アンゴラに「第二のブラジル」の可能性を見出したカルヴァーリョと総督フランシスコ・ソウザ・コウティニョの主導によって商工業の奨励や内陸部の開発が進められた。こうした改革は失敗に終わったものの、1790年以後経済の進展が進み、内陸部開発でも19世紀初頭には大西洋岸のアンゴラとインド洋岸のモザンビークを陸路で横断する探検が成功した。
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