クルチ・アルスラーン2世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/05/06 00:43 UTC 版)
| キリジ・アルスラーン2世 قلج ارسلان دوم |
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| 第5代スルターン | |
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コンヤのアラエディン宮殿のタイル。
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| 在位 | 1156/1157年 - 1192年 |
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| 出生 | 不明 |
| 死去 | 1092年 |
| 子女 | ルクヌッディーン・スライマーン・シャー カイホスロー1世 |
| 家名 | セルジューク家 |
| 王朝 | ルーム・セルジューク朝 |
| 父親 | マスウード1世 |
| 母親 | 不明 |
| 宗教 | イスラーム教スンナ派 |
キリジ・アルスラーン2世(ペルシア語: قلج ارسلان دوم, 'Qilij Arslān-e Dovvom、生没年:? - 1192年)は、ルーム・セルジューク朝の第5代スルターン(在位:1156年 - 1192年)。トルコ語由来だとクルチ・アルスラン2世(II. Kılıç Arslan)と表記される。
生涯
生まれ
マスウード1世の子として生まれる。
即位
諸外国との戦争
キリジ・アルスラーン2世は東ローマ帝国との関係を改善し、1161年には自らコンスタンティノープルを訪問して歓迎を受けた[1]。
1164/1165年にはダーニシュマンド朝のヤグバサンと開戦し、ダーニシュマンド朝を支持する北イラークとシリアのアタベク政権ザンギー朝との関係も悪化した[1]。
1172/1173年、ザンギー朝のヌールッディーンがルーム(アナトリア)に出兵し、ルーム中央部のスィヴァスが占領された[1]。
1174年、ヌールッディーンが亡くなると、ザンギー朝軍は撤退した[1]。キリジ・アルスラーン2世は東方のザンギー朝に対して極力衝突を避け、その攻撃の矛先をかわすことに努めた[1]。
1176年9月17日、東ローマ帝国皇帝マヌエル1世コムネノスが東方の失地回復を目指し、大軍を率いて遠征に出てきた[2]。キリジ・アルスラーン2世の率いるトゥルクマーン軍はアフヨン南方のミュリオケファロンでこれを迎え撃ち、東ローマ帝国軍に大きな損害を与えた[2]。これ以後、東ローマ帝国からの大規模な攻撃はなくなり、アナトリア中央部を本拠とするルーム・セルジューク朝の政権が確立した[2]。
さらにキリジ・アルスラーン2世はダーニシュマンド朝への圧迫を強め、1178年にはその本拠であるマラトヤの町を占領してダーニシュマンド朝を滅ぼした[2]。キリジ・アルスラーン2世に抵抗したダーニシュマンド朝のヤグバサンの息子たちは以後ルーム・セルジューク朝の臣下となり、キリジ・アルスラーン2世の子孫たちに奉仕した[2]。
1179年から1181年にはアイユーブ朝のサラーフッディーンがシリア北部の町の領有をめぐって2度にわたって軍を送ってきたが、大きな衝突には至らなかった[2]。
貨幣にスルターンの銘文
ルーム・セルジューク朝ではマスウード1世の時代から貨幣が発行されるが、それらの貨幣に打刻された銘文には「偉大なスルターン」という大セルジューク朝と同じ表現が用いられた[3]。第2代キリジ・アルスラーン1世の時代からスルターンという君主号が用いられてきたが、貨幣の銘文ではっきりとそれが確認されるのはマスウード1世からである[3]。キリジ・アルスラーン2世時代のルーム・セルジューク朝は東方の大セルジューク朝と同じく、内陸部のコンヤ、カイセリ、スィヴァス、アンカラなどの都市を支配するだけで、アナトリアの海岸部は東ローマ帝国、十字軍、キリキア・アルメニア王国などのキリスト教勢力が支配していた[3]。この状況が変化を見せるのは13世紀に入ってからである[3]。
後継者争いと第3回十字軍遠征
キリジ・アルスラーン2世は晩年自らの領土を11人の息子たちに分配した[3]。首都のコンヤは末子のカイホスローに与えられた[3]。これを嫉んだ兄弟たちの間で王朝の主導権を巡る激しい争いが始まった[3]。それに加えて1187年にアイユーブ朝のサラーフッディーンが十字軍の手から聖地イェルサレムを奪回したことで第3回十字軍遠征が開始され、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサが陸路でアナトリアに侵攻して生きた[3]。1190年5月にフリードリヒ1世はコンヤに到達し、首都が一時占領された[3]。6月、フリードリヒ1世はシリアへの行軍途上の水浴び中に溺死した[4]。
死去
1192年、キリジ・アルスラーン2世が死去し、カイホスロー1世が後を継いだが、その兄弟たちの間での後継者争いは激しさを増した[4]。
子女
息子
括弧内は分封された都市名
- クトゥブッディーン(スィヴァス、アクサライ)
- ルクヌッディーン・スライマーン・シャー(トカトおよびその周辺)
- ヌールッディーン(カイセリおよびその周辺)
- ムクサドゥッディーン(エルビスタン)
- ムイッズッディーン・カイサル・シャー(マラティヤ)
- ムヒイッディーン・メスード(アンカラ、チャンキュル、カスタモヌ、エスキシェヒル)
- カイホスロー1世(ウルボルル、キュタフヤ)
- ナーセルッディーン(ニクサル、コユルヒサル)
- ニザームッディーン(アマスィヤ)
- アルスラーン・シャー(ニーデ)
- サンジャル・シャー(エレーリおよびその南方)
娘
- フュラーネ・ハトゥン(※「某夫人」のような意味の仮名)
- ゲヴヘル・ネシベ・ハトゥン
- セルジューキ・ハトゥン
脚注
注釈
出典
参考資料
- 永田雄三『西アジア史 2 イラン・トルコ』山川出版社〈世界各国史 新版 9〉、2002年8月25日。ISBN 978-4634413900。
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