ウラジーミル1世の受洗とキエフ府主教座の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:55 UTC 版)
「ロシア正教会の歴史」の記事における「ウラジーミル1世の受洗とキエフ府主教座の設立」の解説
正教会の伝承によれば、ルーシの正教伝道の歴史は12使徒のひとりであるアンドレイにさかのぼるとされるが、本格的な正教伝道の試みが歴史的に確認できるのはコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンディヌーポリ)総主教フォティオス(在位:858-861‚ 878-886)によるものである。また954年にはキエフ大公ウラジーミル1世の祖母であるオリガがキリスト教(正教会)の洗礼を受け、ルーシにおける正教のさきがけとなった。 まとまった形を伴ったルーシの正教会の歴史は、988年、キエフ大公ウラジーミル1世が、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世の妹アンナを妃とし、公式に東ローマ帝国の国教である正教会の洗礼を受けた時から始まるとされ、この年がロシア正教会の歴史の基点とされることが多い。府主教座は当時ルーシの中心都市であり、キエフ大公国の首都であったキエフにおかれた。 発足当初から長期にわたってキエフ府主教はコンスタンティノープル総主教庁の監督下にあり、コンスタンティノープル総主教がキエフ府主教を任命した。当初は府主教も東ローマ帝国から派遣されたギリシャ人だった。なお初期の府主教の称号は単に「キエフ府主教」であり、「キエフ及び全ルーシの府主教」の称号は後代になって使われるようになった(13世紀から使われ始め、恒常的に使われるようになったのは14世紀)。 キエフには後にキエフ・ペチェールシク大修道院に成長する洞窟修道院が、アトス山の修道院から出身地ルーシに戻ったアントニイによって1051年に創始された。
※この「ウラジーミル1世の受洗とキエフ府主教座の設立」の解説は、「ロシア正教会の歴史」の解説の一部です。
「ウラジーミル1世の受洗とキエフ府主教座の設立」を含む「ロシア正教会の歴史」の記事については、「ロシア正教会の歴史」の概要を参照ください。
- ウラジーミル1世の受洗とキエフ府主教座の設立のページへのリンク