ウラジーミルとスーズダリの建築
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「東欧諸国のビザンティン建築」の記事における「ウラジーミルとスーズダリの建築」の解説
アンドレイ・ボゴリュプスキイはウラジーミルをルーシ第一の都市にすべく、積極的な活動を行った。この時期の美術は、キエフ大公国の影響下にあったそれまでの「ロストフ・スーズダリ派」に対して、「ウラジーミル・スーズダリ派」と呼ばれている。建築活動も活発で、キエフの職人によって1160年に創建された生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)、1158年に着工されたボゴリューボヴォ城などが知られているが、聖堂は1185年に焼失し、現在の聖堂は1189年に再建されたものである。 ボゴリューボヴォ城は一部が残るだけで全体像はほとんどわからないが、この城に組み込まれていた小型の教会堂が、現在に残っている。このネルリ河畔の生神女庇護聖堂(ポクロフ聖堂)は、1165年に建設された、アンドレイ公の活動を示す美しい聖堂である。創建当時は、現在の聖堂の周囲に、2階廊へ通じる吹きさらしの低い周歩廊がネルリ河畔まで巡らされており、全体の印象は少し異なるものとなっている。しかし、それでもなお、端正な外壁は完成度を物語っている。順次深くなっていく入り口や、外壁に彫刻装飾を採用するなど、ロマネスク建築の影響が認められるが、これは、ウラジーミル大公国の建築がドイツを含む各国から招かれた職人によって建設されたためである。 フセヴォロド3世の治世になると、ウラジーミル・スズダリの建築はより装飾的なものになる。1197年に、宮殿に併設して建設されたドミートリイ宮廷礼拝堂は、ポクロフ聖堂とほとんど変わらない構成だが、壁面は連続する浮き彫り彫刻に覆われている。しかも、そのモティーフはほとんどがキリスト教のものでなく、世俗のもので、主題にキリスト教を用いないのは他の地域ではほとんど見られない 。ウラジーミル近郊にあるユーリエフ=ポーリスキイの聖ゲオルギイ大聖堂は、1471年に1層を除いて倒壊したが、ファサード全体を、ドミートリイ宮廷礼拝堂以上の彫刻装飾で覆い尽くしていることで知られる。
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