ローマ帝国による支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/31 12:58 UTC 版)
「ゲルマニア・スペリオル」の記事における「ローマ帝国による支配」の解説
初代ローマ皇帝アウグストゥスは全ゲルマニア地方をゲルマニア・マグナの名でひとつの属州にまとめよう目論んでいた。しかし、トイトブルク森の戦いでアルミニウス率いるゲルマン諸部族に敗北したことでこの計画は挫折し、ライン川をリメス(国境線)とすることにした。その後も国境をめぐって争いが続いたので、国境を守るゲルマニア・スペリオル属州は強化され、駐留するローマ軍は遠地で厳しい環境にさらされた。紀元前12年までには、ザクセンやマインツに軍事拠点が築かれ、大ドルススはそこで軍団を統括した。これらの拠点を中心に、徐々にいくつもの砦が構築されていった。 69年から70年までのローマ内戦では属州総督のアウルス・ウィテッリウスが皇帝に即位したが、バタウィ族のガイウス・ユリウス・キウィリスらのゲルマン人がライン川およびドナウ川国境のローマ軍の砦を攻撃・破壊し、さらに、ライン川方面とドナウ川方面の軍団の間で内戦も勃発した。この内戦は短期間で収束し、結果的にこれらの国境線の体制は強化され、アウクスブルクとマインツとを結ぶローマ街道も築かれることになった。 83年から85年にかけて、ドミティアヌス帝はフランクフルトの北に住むカッティ族(Chatti)に対して遠征した。現在も残る長城(リメス・ゲルマニクス、Limes Germanicus)が最初に築かれたのがこの時である。その周囲は見通し良く切り払われ、実戦向けの防護柵が連なり、道が通る場所には木製の物見台や砦が築かれた。90年には長城の長さは最長に達した。ローマ街道はオーデンヴァルトを通って伸び、それより細かな街道のネットワークで各砦が連結されていた。 ゲルマニア・スペリオル属州は、90年に皇帝属州として再編され、このときにガリア・ルグドゥネンシス属州の領域だった広い地域を加えた。ゲルマニア・スペリオルの総督としては後に皇帝となったトラヤヌスが最も有名で、彼は96年から98年まで属州総督を務めた。ヘルウェティイ族の支配領域もこの属州の一部となった。
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