西ローマ帝国の滅亡と東ゴート王国とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 西ローマ帝国の滅亡と東ゴート王国の意味・解説 

西ローマ帝国の滅亡と東ゴート王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 01:59 UTC 版)

パヴィーア」の記事における「西ローマ帝国の滅亡と東ゴート王国」の解説

476年西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス在位: 475年 - 476年)が退位し西ローマ帝国終焉もたらしたのは、この都市においてである(以下、都市名を「パヴィーア」で表記する)。 ロムルス・アウグストゥルスは、一般に西ローマ帝国最後の皇帝みなされる。その父フラウィウス・オレステス475年皇帝ユリウス・ネポス廃し、ラウェンナにおいて自らの子皇帝就けたロムルス・アウグストゥルス父親傀儡過ぎず、その治世実権掌握していたのはフラウィウス・オレステスに他ならなかった。ロムルス・アウグストゥルス即位から10か月後、フラウィウス・オレステス部下であった東ゴート族将軍オドアケル率いられ兵士たち反乱起こしパヴィーアにおいてフラウィウス・オレステス殺害したオドアケル軍勢パヴィーア火を放ち多く建物灰燼に帰したイタリア王となったオドアケルは、財源確保するための税をパヴィーア5年課した。父を失ったロムルス・アウグストゥス無力であったロムルス・アウグストゥス殺害されることはなく、西ローマ帝国終焉皇帝によって宣言されオドアケル新たな王国の王となるとオドアケル年額ソリドゥス金貨6000年金ロムルス・アウグストゥス与えたオドアケルイタリア王としての治世長く続かなかった。488年テオドリック王に率いられ東ゴート族イタリア侵入オドアケル戦端開いたのである5年にわたる戦い経て493年3月15日、両王の和議のための宴席オドアケル暗殺者の手かかった北部イタリア中心に建国され東ゴート王国では、テオドリック王がいくつかの都市大規模な公共建築物を建設する復興拡張事業進めたパヴィーアテオドリック王に選定され都市のひとつである。テオドリック王が建設した巨大な宮殿群には、のちにランゴバルド人君主が暮らすこととなったテオドリック王はまた、ローマ様式円形劇場公衆浴場建設した7世紀パヴィーアは、東ローマ帝国領外ヨーロッパ世界において、公衆浴場機能した数少ない場所であったテオドリック治世末年には、キリスト教哲学者教父のひとりボエティウスパヴィーア教会のひとつに投獄され522年 - 525年)、処刑された。ボエティウスパヴィーアでの投獄中に『哲学の慰め』著している。 パヴィーアは、535年に始まる東ゴート王国東ローマ帝国戦争ゴート戦争)において重要な役割果たした540年東ローマ帝国将軍ベリサリウス東ゴートウィティギス降伏させ、東ゴート多く領土失ったが、パヴィーア東ローマ対す東ゴート最後の抵抗中心地であった東ゴート指導者たちが降伏した540年以後も、パヴィーアヴェローナ駐留していた1000人以上が東ローマ帝国による支配との対決選んだ東ゴート戦士たちパヴィーア要塞化し、曲折を経ながら最終的に561年まで戦い続いた

※この「西ローマ帝国の滅亡と東ゴート王国」の解説は、「パヴィーア」の解説の一部です。
「西ローマ帝国の滅亡と東ゴート王国」を含む「パヴィーア」の記事については、「パヴィーア」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「西ローマ帝国の滅亡と東ゴート王国」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「西ローマ帝国の滅亡と東ゴート王国」の関連用語

西ローマ帝国の滅亡と東ゴート王国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



西ローマ帝国の滅亡と東ゴート王国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのパヴィーア (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS