西ローマ帝国の滅亡と東ゴート王国
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「パヴィーア」の記事における「西ローマ帝国の滅亡と東ゴート王国」の解説
476年、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス(在位: 475年 - 476年)が退位して西ローマ帝国に終焉をもたらしたのは、この都市においてである(以下、都市名を「パヴィーア」で表記する)。 ロムルス・アウグストゥルスは、一般に西ローマ帝国最後の皇帝とみなされる。その父フラウィウス・オレステスは475年に皇帝ユリウス・ネポスを廃し、ラウェンナにおいて自らの子を皇帝に就けた。ロムルス・アウグストゥルスは父親の傀儡に過ぎず、その治世で実権を掌握していたのはフラウィウス・オレステスに他ならなかった。ロムルス・アウグストゥルスの即位から10か月後、フラウィウス・オレステスの部下であった東ゴート族の将軍オドアケルに率いられた兵士たちは反乱を起こし、パヴィーアにおいてフラウィウス・オレステスを殺害した。オドアケルの軍勢はパヴィーアに火を放ち、多くの建物が灰燼に帰した。イタリア王となったオドアケルは、財源を確保するための税をパヴィーアに5年間課した。父を失ったロムルス・アウグストゥスは無力であった。ロムルス・アウグストゥスが殺害されることはなく、西ローマ帝国の終焉が皇帝によって宣言され、オドアケルが新たな王国の王となると、オドアケルは年額ソリドゥス金貨6000枚の年金をロムルス・アウグストゥスに与えた。 オドアケルのイタリア王としての治世は長く続かなかった。488年、テオドリック王に率いられた東ゴート族がイタリアに侵入、オドアケルと戦端を開いたのである。5年にわたる戦いを経て、493年3月15日、両王の和議のための宴席でオドアケルは暗殺者の手にかかった。北部イタリアを中心に建国された東ゴート王国では、テオドリック王がいくつかの都市で大規模な公共建築物を建設する、復興・拡張事業を進めた。パヴィーアもテオドリック王に選定された都市のひとつである。テオドリック王が建設した巨大な宮殿群には、のちにランゴバルド人の君主が暮らすこととなった。テオドリック王はまた、ローマ様式の円形劇場や公衆浴場を建設した。7世紀のパヴィーアは、東ローマ帝国領外のヨーロッパ世界において、公衆浴場が機能した数少ない場所であった。テオドリックの治世末年には、キリスト教の哲学者で教父のひとりボエティウスがパヴィーアの教会のひとつに投獄され(522年 - 525年)、処刑された。ボエティウスはパヴィーアでの投獄中に『哲学の慰め』を著している。 パヴィーアは、535年に始まる東ゴート王国と東ローマ帝国の戦争(ゴート戦争)において重要な役割を果たした。540年、東ローマ帝国の将軍ベリサリウスは東ゴート王ウィティギスを降伏させ、東ゴートは多くの領土を失ったが、パヴィーアは東ローマに対する東ゴートの最後の抵抗の中心地であった。東ゴートの指導者たちが降伏した540年以後も、パヴィーアやヴェローナに駐留していた1000人以上が東ローマ帝国による支配との対決を選んだ。東ゴートの戦士たちはパヴィーアを要塞化し、曲折を経ながら最終的に561年まで戦いが続いた。
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