西ローマ帝国への攻撃(405・406年)
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「ラダガイスス」の記事における「西ローマ帝国への攻撃(405・406年)」の解説
詳細は「フィレンツェ包囲戦 (405年)」および「フィエーゾレの戦い (5世紀)」を参照 ラダガイススの軍には、戦闘員だけでなく、女性や子供も含めた多くの非戦闘員が加わっていた。コンスタンディヌーポリ総主教フォティオス1世は『図書総覧(ビブリオテーケー)(英語版)』の中で、ラダガイススが約1万2000人の貴族を従えていたと述べており(詳細は後述)、一方でアウグスティヌスはその数を十数万人とし(『神の国』第5巻・第23章)、オロシウスによれば20万人(『歴史』第7巻)、ゾシムスは40万人と言っているが、いずれも信憑性はないようである。敗戦後、1万2000人の兵士がローマ軍に加わわったことと、上記の通り相当数の兵士が奴隷として売られたことを考慮し、この種の部隊の通常の非戦闘員の割合に従うと、ゴート軍は総人口約10万人に対し2万人以上であったはずである。 『神の国』の同章ではエピルスでゴート族のリーダーであるアラリックが西ゴート族の軍隊とともに、イリュリクムをビザンツ帝国から買収せんとしていたスティリコの接近を待っていたとされるがこの計画はラダガイススの攻撃により崩れ去ったという。 ラダガイススは405年に行軍を開始し、フン族の圧力から逃れてバルカンを経由せずにイタリアに侵攻したことからおそらくカルパティア山脈より西のパンノニア平原のどこかから出発し、発見された貨幣の分布から、東ノリクムと上パンノニア(英語版)の間の地域を横断し、軍の前進から逃れた多くの難民に先導されてアルプスを横断したと思われる。ゴート人はアクイレイア経由でイタリアに入り、ポー川流域に到達するとほとんど抵抗を受けず、おそらく半年以上にわたって北へ移動し補給することができた。ラダガイススはついにフィレンツェまで進出し、ローマ軍が到着したときには包囲され今にも降伏しようとしていた。 この頃、フラウィア・ソルウァ(Flavia Solva)は焼け落ち、ほとんど廃墟と化し、アグントゥム(Aguntum)は火災で壊滅的な被害を受けた。アルプス山脈を越えて進軍してきたラダガイススの軍に先立ち、不特定多数の難民が逃亡した。同時代の人々は、アリウス派のキリスト教徒がラダガイススの軍に入り更にその軍は拡大したと述べている。このような状況の推移を受けてローマ人の間には反キリスト教感情が広がった。オロシウスの記述には「ローマ帝国の要塞を脅かしたとき、異教徒は皆、疑念を抱いた。豊富な力と神々の支えによって強力な敵が来たのだ。すべてが嘆きで満たされ、直ちに犠牲の刷新と厳粛な実行が語られ、不届き者は市中に憤慨し、キリストの名は至る所で侮られた。」とある。 ラダガイススの軍は、西ローマ帝国が軍を動員している間、少なくとも6ヶ月は北イタリアを支配していたが、最終的にフィレンツェに辿り着き包囲を行った。ラダガイススの深刻な脅威に直面し、当時西ローマ帝国の事実上の支配者であった、一部ヴァンダル出身のローマの将軍スティリコは、大軍の調達を迫られ、406年4月、皇帝ホノリウスの勅令により、志願兵の募集が行われ、30連隊(ヌメリ)、総勢約15,000人が現在のリグーリア州からティキヌム(現在のパヴィア)に集結し、ゴート族、サルスの指揮するアラン族の補助部隊、さらに同盟国であるウルディン率いるフン族によって編成された。ラダガイススが長きにわたって自由に行動できたのは、スティリコが軍隊を編成するのに時間がかかったためと思われるが、この軍の到着で状況は一変した。 ゴート軍は包囲を解いてフィエーゾレ周辺の山地に後退せざるを得なくなり、そこで今度は封鎖されてしまった。また、オリンピオドルスの記述によれば、スティリコがゴート族の首長たちを説得して味方を変えさせたということである(後年ではさらに見解を改めている)。フィエーゾレにおける戦闘の経過については諸説ある(歴史学者のピーター・ヘザーは、ラダガイススが逃亡を図ったのは、軍内の反乱によるものだろうと推測している一方で、オロシウスは飢えにより戦わずして軍が壊滅したとしている)が、ラダガイススは結局逃げようとしたところを捕らえられ、405年か406年の8月23日に処刑され、息子たちも一部が同時期に処刑されている。アラリック1世は、条約によりイリュリクムに赴任したため、この一連の動向全体を通じて動きを見せなかった。
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