西ローマ帝国の衰退とフランク王国とは? わかりやすく解説

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西ローマ帝国の衰退とフランク王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)

神聖ローマ帝国」の記事における「西ローマ帝国の衰退とフランク王国」の解説

395年地中海世界全域支配する世界帝国であった古代ローマ帝国東西分割された。東ローマ帝国ではその後1000年以上ローマ皇帝による支配続いたが、西ローマ帝国では蛮族侵入して自らの王国建てていった。476年にはとうとう本土イタリア失われ西ローマ皇帝位廃止された。ガリア現在のフランス北部ではローマ人軍司令官支配するソワソン管区残っていたが、486年メロヴィング朝フランク王国クローヴィス1世によって滅ぼされた。フランク王国ガリア全域支配下入れ分裂統一繰り返しながらも強大化していく。 メロヴィング朝フランク王国末期は、宮宰王国実権握っていた。宮宰とは、本来は王家家政取り仕切る、いわば執事長に過ぎない。しかしフランク王国では王家家政上の私事公務区別があいまいのまま宮宰が行政、裁判戦争参加する権限持ち事実上国王となっていた。8世紀初頭フランク王国は東のアウストラシアと西のネウストリア別れており、両方宮宰がいた。アウストラシアでは7世紀半ばカロリング家による宮宰職の世襲がほぼ確立していた。カロリング家カール・マルテル715年アウストラシア宮宰となり、718年には32前後フランク王国全体宮宰となったカール・マルテルフランク王国における軍事内政両面制度整えたトゥール・ポワティエ間の戦いウマイヤ朝イスラム軍の侵入防いだことで名高いこのころアラビア半島統一して国内落ち着いたウマイヤ朝領土拡大開始していた。北アフリカからジブラルタル海峡越えてスペインアラビア語アル=アンダルス)に侵入し領土とした。兵站確保し道路整備し徴兵制度整えたウマイヤ朝軍は、イベリア半島西ゴート王国滅ぼしたウマイヤ朝720年にはピレネー山脈越えてフランク王国にまで進出してきていた。732年ウマイヤ朝大規模な北上開始し現在のフランス中央部ロワール川流域にまで迫ったカール・マルテル厳しく訓練され重装歩兵密集隊形によって敵将討ち取った。しかしこれは決定的な戦況変化には結びつかなかった。ウマイヤ軍は駱駝や馬などの騎兵上手く運用することにより、重装歩兵弱点であるスピードでもって優位をもっていたからである。また、度重なるイスラム聖戦活動により錬度の高い戦士たちカール大帝よりも優位に戦闘進めるに至った。しかし、突如としてウマイヤ軍は撤退開始した理由明かされていないものの、政治的な理由巡礼月が近かったからなどの説がある。カール・マルテル圧倒的な劣勢からヨーロッパイスラム侵略防衛した英雄となる。結果西ヨーロッパへのイスラム教徒侵入イベリア半島留められた。内政面では王国全土3分の1占めていた教会領の没収強行して、国を守る騎士貸与恩貸)した。封建制度基礎作ったのである。これは、ウマイヤ朝比べて馬の数が少なフランク王国における騎兵常備させるためである。希少な馬を育て騎兵とて国家運用するために編み出したのがこの封制度であった。(イスラムでは逆に絶対制度であるカリフ制の後に封制度現れる。)これにより、再度イベリアからのイスラム圏侵略対応しようとした。だが代償として、カロリング家教会との関係悪化してしまった。 741年カール・マルテル55歳死去し750年には息子ピピン3世36歳前後フランク王国全土実権を握る宮宰となった宮宰となったピピンは、まずカール・マルテル悪化させた教会との関係修復した751年ピピンローマ教皇ザカリアス支持受けた上でフランク族貴族たちによって王に選出されメロヴィング朝の王キルデリク3世廃された。754年から755年ピピン教皇支持への見返りイタリア大部分支配していたランゴバルド王国戦いイタリア中心部ラヴェンナ奪って教皇ステファヌス2世献上ピピンの寄進)した。ピピン時代にはカトリック教会カロリング朝結びつき強くなり、フランク王国を「神の国」とするような観念見られ始める。768年ピピン52歳死去し息子カールカール大帝)とカールマンそれぞれ26歳17歳前後で後を継いだその後771年カールマン早逝したので、以降カール単独王国支配したカール生涯大半征服行で占められていた。46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征行った。北ではザクセン族(北ドイツ)、南ではランゴバルド族イタリア)、西ではウマイヤ朝スペイン)、東ではバイエルン族南ドイツ)やアヴァール人戦った。他にも西のブルターニュや北のフリース族と戦ったカールフランク王国領土最大広げ800年ローマ皇帝として戴冠されることになる。

※この「西ローマ帝国の衰退とフランク王国」の解説は、「神聖ローマ帝国」の解説の一部です。
「西ローマ帝国の衰退とフランク王国」を含む「神聖ローマ帝国」の記事については、「神聖ローマ帝国」の概要を参照ください。

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