前イスラーム期
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フーゼスターン州はスーサ周辺に拠点をおく古代文明中心地の一つである。ジャック・ドゥ・モーガンなどのフランスの考古学者は、「ターレ・アリー・コシュ」周辺の遺跡を紀元前8000年ころに遡るとしている。この地域に拠点をおく最初の巨大勢力はエラムであり、非アーリア系王朝であった。 考古学的調査により、フーゼスターン州全域が「最初期のペルシア文明」であるエラム文明の故地であることがわかる。先述のようにフーゼスターンとはエラムに由来する語であり(「Ūvja」)、エラムは北方のメソポタミアとは無関係の人びとであった。 エルトン・ダニエルに従えば、エラムは「地理的な意味において、最初のイランの帝国の創業であった」。したがって、地政学的重要性に鑑みても、フーゼスターン州はイラン最初の帝国の座であったといえるのである。 アッカド帝国とウル第3王朝やイシン第2王朝のネブカドネザル1世などメソポタミアから何度も侵略を受けたエラムは、紀元前640年にはアッシリア帝国のアシュールバニーパルに敗れ、スーサやチョガ・ザンビールを破壊された。しかし紀元前538年、キュロス2世はエラムの地を取り戻し、スーサはハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)の首都の一つとされた。紀元前521年、ダーラヤワウ大王(ダレイオス1世)は「ハディーシュ」という宮殿をこの地に建てた。ハカーマニシュ朝の驚くべき繁栄と栄光の時代はアレクサンドロス3世(大王)の征服によっておわり、セレウコス朝がこの地域を支配した。 セレウコス朝が衰退するとアルサケス朝のメフルダード1世(ミトリダテス1世、紀元前171年 - 紀元前137年)が支配した。サーサーン朝の治世下で、この地域はすばらしく発達、繁栄し、アフヴァーズ、シューシュタル、アンディーメシュク北部などで多くの建築が行われている。 数世紀にわたりネストリウス派がアラム語を用いてこの地域に教線を広げている。500年ころには「ベス・フザイェ」と呼ばれている。639年にはセレウキア、クテシフォンなどともに首都圏マダーインを形成するマホーゼにネストリス派主教ガダラのイショヤフブ2世の主教座がおかれている。
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前イスラーム期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:14 UTC 版)
前イスラーム期の歴史叙述では、古典古代の諸言語における「ペルシア人」を受け継ぎ、ハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)やサーサーン朝の人々に対する民族名称として「ペルシア人」が頻繁に用いられる。この文脈におけるペルシア人は、これら「ペルシア帝国」の主要な担い手となったパールサ地方の人々のみならず、ハカーマニシュ朝やサーサーン朝の民というような意味合いを帯びることもあり、この意味では、西方において半独立の辺境域の人びとでもペルシア人と呼ばれることがある。 こうした傾向は古代ギリシャ語・ラテン語を主たる史料とするローマ帝国史のみならず、ペルシアそれ自体を研究するペルシア帝国史においても同様である。この事情は近代以降のヨーロッパだけではなく、ヨーロッパから歴史学を西洋史学として輸入した日本においても長らく同じであり、特にペルシア帝国史の専門研究の外に対しては「ペルシア人」の用法は深く定着しているといってよい。 しかし、近年はハカーマニシュ朝史、サーサーン朝史の叙述では、それぞれの帝国にかかわった各集団を厳密に定義して呼び分け、全体を漠然とペルシア人ということは少なくなりつつある傾向がみられる。この背景には、研究の深化や、従来の近代ヨーロッパからの東洋研究において東洋と西洋を対置し、東洋を非普遍的なものとして位置づけるオリエンタリズム的な視点が関わっていたことへの批判の存在が指摘できる。 一方、この時代の中央アジア方面のペルシア語系の言語の話者については、従来からソグド人やイラン系といった用語が日本の歴史研究では好まれてきた。東からの視点で「ペルシア」が叙述される際には、「ペルシア人」はサーサーン朝治下の人々を限定的に指すことが多い。 こうした東洋史研究者の用例は、一般的な日本語における広義の「ペルシア人」の定着と比べるときわめて対照的である。東洋史研究において漠然とした「ペルシア人」の呼称が好まれない理由としては、西方の場合と同様に、広義の「ペルシア人」の用法がオリエンタリズム、あるいはその日本における特殊な形態であるシルクロードイメージと密接に関連するため、研究者の文脈では好まれないという背景が指摘できる。日本において東からの視点で「ペルシア人」を語る際には、例えば正倉院の中央アジア伝来の宝物に対するロマンチシズムと結びつき、はるかシルクロードの彼方から訪れた幻想的な人びと、「天平のペルシア人」といったイメージが付与されがちであり、古代の「ペルシア人」はシルクロードイメージと強く結びついてしまった。 こうした古典的なシルクロードイメージは、かつて日本で盛んであった東西交渉史研究とも関係が深いが、現在の日本の中央アジア史や中央ユーラシア史、インド史研究からは、シルクロードの叙述は中国とローマ・ペルシア間の東西長距離交易を強調して中央アジアを単なる通過点とする視点に偏っており、実際にはオアシス間・南北交易も盛んであった中央アジア史の実際を誤ってとらえさせるものとする批判に耐えられなくなっている。このような事情により、現在の日本の東洋史研究では広義の「ペルシア人」はほとんど使われることがなくなってしまった。
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