前イスラーム期とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 前イスラーム期の意味・解説 

前イスラーム期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 14:49 UTC 版)

フーゼスターン州」の記事における「前イスラーム期」の解説

フーゼスターン州スーサ周辺拠点をおく古代文明中心地一つである。ジャック・ドゥ・モーガンなどのフランス考古学者は、「ターレ・アリー・コシュ」周辺の遺跡紀元前8000年ころに遡るとしている。この地域拠点をおく最初巨大勢力エラムであり、非アーリア系王朝であった考古学的調査により、フーゼスターン州全域が「最初期ペルシア文明」であるエラム文明故地であることがわかる。先述のようにフーゼスターンとはエラム由来する語であり(「Ūvja」)、エラム北方メソポタミアとは無関係人びとであった。 エルトン・ダニエルに従えばエラムは「地理的な意味において、最初イラン帝国創業であった」。したがって地政学的重要性鑑みても、フーゼスターン州イラン最初帝国の座であったといえるのであるアッカド帝国ウル第3王朝イシン第2王朝ネブカドネザル1世などメソポタミアから何度も侵略受けたエラムは、紀元前640年にはアッシリア帝国のアシュールバニーパルに敗れスーサチョガ・ザンビール破壊された。しかし紀元前538年キュロス2世エラムの地を取り戻しスーサハカーマニシュ朝アカイメネス朝)の首都一つとされた。紀元前521年、ダーラヤワウ大王ダレイオス1世)は「ハディーシュ」という宮殿をこの地に建てたハカーマニシュ朝驚くべき繁栄栄光の時代アレクサンドロス3世大王)の征服によっておわり、セレウコス朝がこの地域支配したセレウコス朝衰退するアルサケス朝のメフルダード1世ミトリダテス1世紀元前171年 - 紀元前137年)が支配したサーサーン朝治世下で、この地域すばらしく発達繁栄しアフヴァーズシューシュタル、アンディーメシュク北部などで多く建築が行われている。 数世紀にわたりネストリウス派アラム語用いてこの地域に教線を広げている。500年ころには「ベス・フザイェ」と呼ばれている。639年にはセレウキアクテシフォンなどともに首都圏マダーインを形成するマホーゼにネストリス派主教ガダラのイショヤフブ2世主教座がおかれている

※この「前イスラーム期」の解説は、「フーゼスターン州」の解説の一部です。
「前イスラーム期」を含む「フーゼスターン州」の記事については、「フーゼスターン州」の概要を参照ください。


前イスラーム期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:14 UTC 版)

ペルシア人」の記事における「前イスラーム期」の解説

前イスラーム期の歴史叙述では、古典古代の諸言語における「ペルシア人」を受け継ぎハカーマニシュ朝アカイメネス朝)やサーサーン朝人々対す民族名称として「ペルシア人」が頻繁に用いられる。この文脈におけるペルシア人は、これら「ペルシア帝国」の主要な担い手となったパールサ地方人々のみならずハカーマニシュ朝サーサーン朝の民というような意味合い帯びることもあり、この意味では、西方において半独立辺境域の人びとでもペルシア人呼ばれることがあるこうした傾向古代ギリシャ語ラテン語主たる史料とするローマ帝国のみならずペルシアそれ自体研究するペルシア帝国史においても同様である。この事情近代以降ヨーロッパだけではなくヨーロッパから歴史学西洋史学として輸入した日本においても長らく同じであり、特にペルシア帝国史の専門研究の外に対しては「ペルシア人」の用法深く定着しているといってよい。 しかし、近年ハカーマニシュ朝史、サーサーン朝史の叙述では、それぞれの帝国かかわった集団厳密に定義して呼び分け全体漠然とペルシア人ということは少なくなりつつある傾向みられる。この背景には、研究深化や、従来近代ヨーロッパからの東洋研究において東洋と西洋対置し、東洋を非普遍的なものとして位置づけるオリエンタリズム的な視点が関わっていたことへの批判存在指摘できる一方、この時代中央アジア方面ペルシア語系の言語話者については、従来からソグド人イラン系といった用語が日本の歴史研究では好まれてきた。東からの視点で「ペルシア」が叙述される際には、「ペルシア人」はサーサーン朝治下人々限定的に指すことが多い。 こうした東洋史研究者の用例は、一般的な日本語における広義の「ペルシア人」定着比べるきわめて対照的である。東洋史研究において漠然としたペルシア人」の呼称好まれない理由としては、西方場合同様に広義の「ペルシア人」用法オリエンタリズム、あるいはその日本における特殊な形態であるシルクロードイメージと密接に関連するため、研究者文脈では好まれないという背景指摘できる日本において東からの視点で「ペルシア人」を語る際には、例え正倉院中央アジア伝来宝物対すロマンチシズム結びつき、はるかシルクロード彼方から訪れた幻想的な人びと、「天平ペルシア人」といったイメージ付与されがちであり、古代の「ペルシア人」はシルクロードイメージと強く結びついてしまった。 こうした古典的なシルクロードイメージは、かつて日本で盛んであった東西交渉研究とも関係が深いが、現在の日本中央アジア史中央ユーラシア史、インド史研究からは、シルクロード叙述中国とローマ・ペルシア間の東西長距離交易強調して中央アジア単なる通過点とする視点偏っており、実際にオアシス間・南北交易も盛んであった中央アジア史実際誤ってとらえさせるものとする批判に耐えられなくなっている。このような事情により、現在の日本の東洋史研究では広義の「ペルシア人」はほとんど使われることがなくなってしまった。

※この「前イスラーム期」の解説は、「ペルシア人」の解説の一部です。
「前イスラーム期」を含む「ペルシア人」の記事については、「ペルシア人」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「前イスラーム期」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「前イスラーム期」の関連用語

前イスラーム期のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



前イスラーム期のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのフーゼスターン州 (改訂履歴)、ペルシア人 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS