前イスラーム期のペルシアでの使用
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「スパーフベド」の記事における「前イスラーム期のペルシアでの使用」の解説
「サーサーン朝の軍隊」を参照 この称号の古代ペルシア語形はスパーダパティ(spādhapati、「*spādha-:軍隊」+「*pati-:主、長」)であると想定され、軍司令官を意味していた。この称号(𐭎𐭐𐭀𐭃𐭐𐭕𐭉)はアルサケス朝でも使用され続けた。 アルサケス朝の跡を継いだサーサーン朝でもこの称号は維持された。しかしサーサーン朝期にスパーフベドという称号が使用されていたことを証明する同時代史料は非常に少なく、近年まで3世紀の碑文があるだけであった。シャープール1世の碑文に、アルダシール1世(在位:224年-240年)の時代にRaxšという名前のスパーフベドが宮廷にいたことが記され、ナルセ1世(在位:293年-303年)の碑文(パイクリ碑文)にもRaxšという名前のスパーフベドが記録されている。アルダシール1世とナルセ1世の治世は半世紀以上隔たっており、両者は同名の別人であると見られる。 ビザンツ帝国とシリア語の史料は6世紀初頭にその階級にあったかもしれない多数の上級役職者を記録している。502年から506年にかけてのAnastasian戦争の間、ビザンツ帝国の諸局長官(magister officiorum)のCelerと交渉をし505年に死亡したBoes(Bōē)なる人物は、シリア語の史料ではastabed(astabid、astabad、astabadhとも綴られる)と名付けられている。この交渉を彼から引き継いだ名称不明の後継者もこのまたこの称号を負っていた。 何人かの現代の学者はastabedをビザンツ帝国の諸局長官(magister officiorum)に対応する新しい地位であり、恐らくカワード1世によってWuzurg framadar職の権威を弱めるために503年の直前に設置されたものであると解釈している。しかしこのシリア語の情報は、この名称がギリシア語の史料において二人目の交渉者にアスペベドゥス(Aspebedus)またはアスペティウス(Aspetius)という語形で割り当てられていることから、単に「spāhbed」か、または恐らく「asp(a)bed(騎兵隊長)」が訛った形態である可能性が高い。イベリア戦争(526年-532年)の間、再びBawiという名の人物が登場する。歴史家プロコピオスによれば彼はホスロー1世(在位:531年-579年)の母方のおじである。彼は527年にビザンツの使節との交渉に参加し、531年には彼はChanarangesとMermeroesと共にメソポタミア属州への侵攻を指揮した。彼は他の貴族と共にホスロー1世の兄弟のZamesを支持し、ホスロー1世を打倒する計画を首謀していたため、ホスロー1世の王位継承直後に処刑された。 この他、サーサーン朝のスパーフベドに関する情報はほぼ滅亡後に作られたの文学的記録に依存しており、実像を描き出すことは困難である。これら後世の文献はホスロー1世(在位:531年-579年)が軍制改革によって単独の最高司令官を廃し、4つの方位(kust、Šahrestānīhā ī Ērānšahrを参照、)をそれぞれ担当する以下のような4人の将軍を置いたことを記録している。このような改革は既に彼の父親であるカワード1世(在位:499年-531年)の時代には計画されていた可能性もある。 東のスパーフベド(kust ī khwarāsān spāhbed) 南のスパーフベド(kust ī nēmrōz spāhbed) 西のスパーフベド(kust ī khwarbārān spāhbed、) 北のスパーフベド(kust ī abāxtar spāhbed)北のスパーフベドはアートゥルパーターカーンのスパーフベド(kust ī Ādurbādagān spāhbed')とも呼ばれた。 同時代史料の欠如のため、スパーフベド職の分割についての史実性、およびホスロー1世以後の時代にもこの区分が継続したのかついては、かつて疑問が呈されていた。しかし、近年発見された13個の印章(seals)は8人のスパーフベドの名前と、ホスロー1世と彼の後継者ホルミズド4世(在位:579年-590年)の治世の同時代史料を提供している。P. Pourshariatiはこれらのうち2つはホスロー2世(在位:590年-591年)の治世のものであると主張している。判明した8人のスパーフベドは以下の通りである。 名前任地王家系Chihr-Burzēn(Simah-i Burzin) 東 ホスロー1世 カーレーン(英語版) Dād-Burzēn-Mihr(Wuzurgmihr) 東 ホルミズド4世 カーレーン Wahrām Ādurmāh(Bahram-i Mah Adhar) 南 ホスロー1世およびホルミズド4世 不明 Wēh-Shāhbur 南 ホスロー1世 不明 Pīrag-i Shahrwarāz(シャフルバラーズ(Shahrwarāz)) 南 ホスロー2世 ミフラーン Wistakhm(ヴィスタム) 西 ホルミズド4世およびホスロー2世 アスパーフバド(英語版) Gōrgōn または Gōrgēn(Golon Mihran) 北 ホスロー1世 ミフラーン Sēd-hōsh (?) 北 ホスロー1世 ミフラーン スパーフベド(spāhbed)の地位は例えばシャフルバラーズ(Shahrwarāz、「帝国のイノシシ」)などのように他の地位や称号と兼任されていたため、この地位を持っていたその他の人々を文献史料から特定するのは困難である。シャフルバラーズのような称号は個人名として取り扱われることが多い。後世の文献における更なる混乱の原因は、この語が格下の地方支配者の地位であるマルズバーン(marzbān、境界長官、:frontier-warden、辺境伯:margrave)およびパーイゴースバーン(pāygōsbān、地方防衛官:district guardian)の同義語として使用されるようになることである。 サーサーン朝滅亡後の文学的史料の多くは最高位のスパーフベドをスパーフベダーン・スパーフベド(spāhbedān spāhbed、諸将軍の将軍)またはエーラーン・スパーフベド(Ērān-spāhbed)と呼んでいる。9世紀のムスリムの歴史家ヤアクービーの序列表によれば、この最高司令官は宮廷の位階において第5位を占めていた 。 四方の方位を冠したスパーフベドの称号は『ブンダヒシュン(Bundahišn)』『Sūr Saxwan』でしか用いられておらず、しかもkustという語は外された形態である。これはこの種の文書から歴史的情報が徐々に失われていったことを示している。 ゾロアスター教にまつわる著作『ブンダヒシュン』にはスパーフベダーン・スパーフベド(Spāhbedān spāhbed)への言及がある。この宗教的物語においてはスパーフベドにはそれぞれの星があったとされる。即ち、東のスパーフベドはTištar(シリウス)、南のスパーフベドはSadwēs(フォーマルハウトか?)、西のスパーフベドはWanand(ベガ)、北のスパーフベドはHaftōring(おおぐま座)、そしてスパーフベダーン・スパーフベドは天空の中心にある極星(The Pole star)が割り当てられていた。彼らはその星の上にオフルマズドによって任命されたという。この神話的な記述が実態をどの程度反映しているのかは明らかではない。
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