前イスラーム期のペルシアでの使用とは? わかりやすく解説

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前イスラーム期のペルシアでの使用

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/05 13:53 UTC 版)

スパーフベド」の記事における「前イスラーム期のペルシアでの使用」の解説

サーサーン朝軍隊」を参照 この称号古代ペルシア語形はスパーダパティ(spādhapati、「*spādha-:軍隊」+「*pati-:主、長」)であると想定され軍司令官意味していた。この称号(𐭎𐭐𐭀𐭃𐭐𐭕𐭉)はアルサケス朝でも使用され続けたアルサケス朝の跡を継いだサーサーン朝でもこの称号維持された。しかしサーサーン朝期にスパーフベドという称号使用されていたことを証明する同時代史料は非常に少なく近年まで3世紀碑文があるだけであったシャープール1世碑文に、アルダシール1世在位224年-240年)の時代にRaxšという名前のスパーフベド宮廷にいたことが記されナルセ1世在位293年-303年)の碑文(パイクリ碑文)にもRaxšという名前のスパーフベド記録されている。アルダシール1世ナルセ1世治世半世紀以上隔たっており、両者同名別人であると見られるビザンツ帝国シリア語史料6世紀初頭にその階級にあったかもしれない多数の上役職者記録している。502年から506年にかけてのAnastasian戦争の間ビザンツ帝国の諸局長官(magister officiorum)のCelerと交渉をし505年死亡したBoes(Bōē)なる人物は、シリア語史料ではastabed(astabid、astabad、astabadhとも綴られる)と名付けられている。この交渉を彼から引き継いだ名称不明後継者もこのまたこの称号負っていた。 何人かの現代学者はastabedをビザンツ帝国の諸局長官(magister officiorum)に対応する新し地位であり、恐らくカワード1世によってWuzurg framadar職の権威弱めるために503年直前設置されたものである解釈している。しかしこのシリア語情報は、この名称がギリシア語史料において二人目交渉者にアスペベドゥス(Aspebedus)またはアスペティウス(Aspetius)という語形割り当てられていることから、単に「spāhbed」か、または恐らく「asp(a)bed騎兵隊長)」が訛った形態である可能性が高い。イベリア戦争526年-532年)の間、再びBawiという名の人物登場する歴史家プロコピオスによれば彼はホスロー1世在位531年-579年)の母方のおじである。彼は527年ビザンツ使節との交渉参加し531年には彼はChanarangesとMermeroesと共にメソポタミア属州への侵攻指揮した。彼は他の貴族と共にホスロー1世兄弟のZamesを支持しホスロー1世打倒する計画首謀していたため、ホスロー1世王位継承直後処刑された。 この他サーサーン朝スパーフベドに関する情報はほぼ滅亡後作られたの文学的記録依存しており、実像描き出すことは困難である。これら後世文献ホスロー1世在位531年-579年)が軍制改革によって単独最高司令官廃し4つ方位(kust、Šahrestānīhā ī Ērānšahr参照、)をそれぞれ担当する以下のような4人の将軍置いたことを記録している。このような改革は既に彼の父親であるカワード1世在位499年-531年)の時代には計画されていた可能性もある。 東のスパーフベド(kust ī khwarāsān spāhbed) 南のスパーフベド(kust ī mrōz spāhbed) 西のスパーフベド(kust ī khwarbārān spāhbed、) 北のスパーフベド(kust ī abāxtar spāhbed)北のスパーフベドはアートゥルパーターカーンのスパーフベド(kust ī Ādurbādagān spāhbed')とも呼ばれた同時代史料欠如のため、スパーフベド職の分割についての史実性、およびホスロー1世以後時代にもこの区分継続したのかついては、かつて疑問呈されていた。しかし、近年発見され13個の印章seals)は8人のスパーフベドの名前と、ホスロー1世彼の後継者ホルミズド4世在位579年-590年)の治世同時代史料提供している。P. Pourshariatiはこれらのうち2つホスロー2世在位590年-591年)の治世のものである主張している。判明した8人のスパーフベド以下の通りである。 名前任王家系Chihr-Burzēn(Simah-i Burzin) 東 ホスロー1世 カーレーン(英語版) Dād-Burzēn-Mihr(Wuzurgmihr) 東 ホルミズド4世 カーレーン Wahrām Ādurmāh(Bahram-i Mah Adhar) 南 ホスロー1世およびホルミズド4世 不明h-Shāhbur 南 ホスロー1世 不明 Pīrag-i Shahrwarāz(シャフルバラーズ(Shahrwarāz)) 南 ホスロー2世 ミフラーン Wistakhm(ヴィスタム) 西 ホルミズド4世およびホスロー2世 アスパーフバド(英語版) Gōrgōn または Gōrgēn(Golon Mihran) 北 ホスロー1世 ミフラーン Sēd-hōsh (?) 北 ホスロー1世 ミフラーン スパーフベドspāhbed)の地位例えシャフルバラーズ(Shahrwarāz、「帝国イノシシ」)などのように他の地位称号兼任されていたため、この地位持っていたその他の人々文献史料から特定するのは困難である。シャフルバラーズのような称号個人名として取り扱われることが多い。後世文献における更なる混乱の原因は、この語が格下地方支配者地位であるマルズバーン(marzbān、境界長官、:frontier-warden、辺境伯margrave)およびパーイゴースバーン(pāygōsbān、地方防衛官:district guardian)の同義語として使用されるうになることである。 サーサーン朝滅亡後文学的史料多く最高位スパーフベドをスパーフベダーン・スパーフベド(spāhbedān spāhbed諸将軍の将軍)またはエーラーン・スパーフベド(Ērān-spāhbed)と呼んでいる。9世紀ムスリム歴史家ヤアクービー序列によれば、この最高司令官宮廷位階において第5位を占めていた 。 四方方位冠したスパーフベド称号は『ブンダヒシュン(Bundahišn)』『Sūr Saxwan』でしか用いられておらず、しかもkustという語は外され形態である。これはこの種の文書から歴史的情報徐々に失われていったことを示している。 ゾロアスター教まつわる著作ブンダヒシュン』にはスパーフベダーン・スパーフベド(Spāhbedān spāhbed)への言及がある。この宗教的物語においてはスパーフベドにはそれぞれの星があったとされる。即ち、東のスパーフベドTištarシリウス)、南のスパーフベドはSadwēs(フォーマルハウトか?)、西のスパーフベドはWanand(ベガ)、北のスパーフベドはHaftōringおおぐま座)、そしてスパーフベダーン・スパーフベドは天空中心にある極星(The Pole star)が割り当てられていた。彼らはその星の上にオフルマズドによって任命されたという。この神話的な記述実態をどの程度反映しているのかは明らかではない。

※この「前イスラーム期のペルシアでの使用」の解説は、「スパーフベド」の解説の一部です。
「前イスラーム期のペルシアでの使用」を含む「スパーフベド」の記事については、「スパーフベド」の概要を参照ください。

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