封建制概念に対する疑問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 09:23 UTC 版)
日本の封建制、封建領主をめぐる議論は以上のような展開を示したが、1980年代 - 1990年代以降、封建制ないし封建領主というカテゴリに対する疑問が提示され始めた。 まず、近世封建制について、封建領主たる大名や一部の武士も土地・人民を支配していたわけではなく、石高に相当する年貢・夫役の徴収権を有するに過ぎなかったこと、幕藩体制下での主従関係には、中世西欧のそれのと大きな差異も見られたことなどを理由として、近世社会を封建制ととらえることの学問的妥当性に強い疑問が出された。また、日本封建制論の理論的根拠となっているマルクス『資本論』の註記は近世日本が封建制社会であることを論理的に立証したのではなく、単にラザフォード・オールコックの『大君の都』への皮肉として書かれたものとする保立道久の論証もなされている。近世社会研究は、封建制という定式化された歴史概念に拘泥せず、幕藩制国家論や社会構造論の方向へシフトしていった。 中世史研究においても同様で、中世社会を封建制、中世領主を封建領主ととらえる議論は1980年代末ごろを境に大幅に減少した。1960年代から守護領国制をめぐる議論の中で、守護大名の非領主的性格が指摘され、守護大名を封建領主として定義することへの疑問は既に提示されていた。1980年代ごろから社会史研究の視座が広がっていく中で、領主層を封建領主または非封建領主と見るのではなく、その当時の社会構造をいかに規定し、領主層がその中でいかなる役割を果たしたか、という方向へ議論が深まっていき、1990年代から2000年代になると封建制ないし封建領主概念が論じられることは非常にまれとなった。現在でも封建領主という用語が使われることはあるが、積極的な意味づけがなされていることは少ない。 また、封建制を西欧および日本のみに見られる例外的な社会構造とする議論も、現在の学術水準では疑問視される傾向にある。そもそも西欧封建制と日本封建制との間に大小様々な相違が存在しており、仮に日本中世・近世社会を封建制と見たとしても、同様の社会構造がインドや東南アジアにも検出されており、決して西欧と日本に特化した社会体制とは言えないことなどが指摘されている。封建制を西欧と日本のみのものとする主張は皆無ではないが、保守言論を中心にごく一部で見られるにとどまっている。
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