封建制の法典編纂
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ローマ帝国崩壊後のヨーロッパでも封建制が各国で確立していたが、マルティン・ルターの宗教改革(1517年~)において、カトリック教皇権に対抗して世俗的君主権の強化が説かれたことから絶対主義が確立。 1532年、グーテンベルクの活版印刷術によるローマ法学の普及の成果として、諸侯や都市当局による不当な逮捕・処刑を改善すべく、刑事訴訟法分野につき、神聖ローマ帝国最初の統一法典『カール5世の刑事裁判令』(カロリーナ法典)が成立。しかし、諸侯の抵抗が強く法の統一には至らず、啓蒙主義の影響を受けた君主が官僚を利用して法典編纂事業を本格化させるのは18世紀中葉以降である。 封建時代に於ては一郡一村毎に君主のやうなものが有りました。…尤も…オホアタマが無かったといふ国は有りませぬ。フランスには…国王があり、…日本にも…天皇陛下といふものが有ります。ドウして封建が立ったかといふと、蒸気…電信…鉄道もなく…オホアタマの適用する権力もなく、また方法もないから、君主を配る必要が起ったので有ります。…君主権は…分ったにしても、互にイクサをしていけませぬ…然れば…幼年…女…でも無く…長子に与へるといふことが…封建制の長子権の起る原因で有りませう。…此の封建政体を…ブチコワスに付ては四百年の星霜を要しました。アナタの国では両三日でおコワシなすったが…エウロッパの大名が非常に強くって、日本のお大名は大変に弱かったからでありました。 能く人がフランスの封建政体は百年前の大革命に因って倒れたと…言いますが…全くはルイ14世…の時に倒れたものであります。 — ボアソナード(通訳磯部四郎)明治法律学校性法講義、1887年(明治20年) 君権の脆弱な封建制への回帰を主張しないのが穂積八束の立場である(長尾龍一)。 1748年、フランスの啓蒙思想家モンテスキューが『法の精神』を著し、各地の自然文化風俗に応じた法形態を指摘、自然法の具体的適用を理論化。 ルイ14世は、絶対王政を背景に1767年と1772年に北部ゲルマン法系慣習法・南部ローマ法系成文法の廃止・統合を試みたが、諸地方の抵抗に合い王令は全国的には適用されなかった。日本の法典論争議会演説でもその名は登場し、自然的な慣習法の明文化でない、政府による上からの法典編纂という意味で、日本の法典編纂と共通の性質を持つことが指摘されている(穂積陳重)。 明治維新の本質を封建制から絶対主義への移行と理解し、その半封建性を強調するのが平野・玉城ら講座派マルクス主義である(半は絶対王政期の意)。
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