封建時代から革命まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 09:35 UTC 版)
「トゥールーズ」の記事における「封建時代から革命まで」の解説
フランク王国は、地中海とフランク王国との間を分断するトゥールーズにその影響力を失いつつあった。トゥールーズは特に、東境を接するセプティマニア、南境を接し西ゴート族に従属するスペインの、強力な隣国であった。629年にトゥールーズは独立状態となり、7世紀から8世紀には暫定的にトゥールーズ王国となり、ピレネー山脈からロワール川まで、ロデーズから海までその国境が拡張した。721年、トゥールーズはアラブ軍に包囲され、同年6月9日のトゥールーズの戦いでついに敗北した。この敗北が、トゥールーズ領の北進を中止させた。中世になっても、市は長期間の独立状態を謳歌した。代々のトゥールーズ伯たちは、フランス南部に自分たちの領土を拡大させていった。トゥールーズ伯の存在の証拠として、伯爵の居城の基礎跡が、中世都市から裁判所のあった場所へと至る南門近くの場所を占めていたことが最近わかった。トゥールーズのキリスト教徒は、都市に数多くの教会を建てた。1096年、ローマ教皇ウルバヌス2世がトゥールーズを訪れ、サン=セルナン大聖堂の献堂を行った。サン=テチエンヌ大聖堂は13世紀に建てられた。 1152年、都市の共同議会と、城壁外の町がトゥールーズ伯によって設置された。共同議会はキャピトゥラ(capitoulat)と呼ばれ、市内の6つの地区から選出された12人の構成員(fr:Capitoul)からなっていた。これは司法が最初に市民に確保された出来事だった。当時、彼らは伯爵から命令を受け、税の識別を行い、市民軍を育成し、都市の秩序と司法を確保する間に、自ら権力を得たのである。1190年、北門に近い城壁の反対側に、市民は市役所建物を獲得した。これが現在市の象徴となっているキャピトル邸(キャピトル・ド・トゥールーズ、fr)である。この時代に、市の特権が数多く認められた。1189年1月6日の反乱に伴い、伯爵は通貨を鋳造する力や、外部からの脅威があれば一部の軍隊を動かす権力をのみ維持した。 同時代、カタリ派が南フランスで盛んに信仰され、1209年にはアルビジョワ十字軍による征伐が起きた。オック語諸都市の勝利にもかかわらず、多くの変遷をへて、これをきっかけとしてトゥールーズ伯領は衰え、1229年4月12日のパリ条約の締結で凋落が始まった。1271年、最後のトゥールーズ伯ジャンヌの死により、トゥールーズ伯領はフランス王領へ併合され、フランス領ラングドックの一部となった。トゥールーズ大学は同時代に創設されている。 14世紀、貿易の繁栄で、トゥールーズはフランス王国第4の都市となった。しかし1348年、1361年、そして15世紀にもトゥールーズはペスト大流行で人口を減らした。百年戦争での努力をトゥールーズは確保しなければならず、略奪の被害にあわなければならなかった。城外に広がる居住地は破壊され、都市機能は城壁の内側に隠された。 15世紀終わりから16世紀にかけてのルネサンス期、着色料アイの産業が盛んとなり、市は非常に繁栄した。ベルニュイ邸やアッセザ邸といった特徴ある邸宅が建設されたのはこの時期である。1463年5月7日のトゥールーズ大火で3つの地区が壊滅、教会や修道院、自治体建物が数カ所焼け落ちたにもかかわらず、繁栄する都市は拡大した。1476年、トゥールーズは印刷術が伝わったフランス第4の都市となった。1560年、トゥールーズのプロテスタントとカトリックが血で血を洗う抗争を繰り広げた。 17世紀にカトリックの勝利が確定し、カトリックの修道院や教会が数多くトゥールーズへ移ってきた。親カトリック派は宰相リシュリューが権力を握る王政と敵対し、ラングドック総督であったモンモランシー公アンリ2世(コンデ公爵夫人シャルロットの実弟)が反乱を起こし、捕らえられて1632年にキャピトル広場で処刑された。都市の2つの象徴、ヌフ橋とミディ運河は、1632年と1682年にそれぞれ完成した。18世紀にキャピトル邸が再建された。1762年、ジャン・カラス事件(fr:Affaire Calas)が起きた。弁護士の弁護を受けられず不公平に裁かれた、1人のプロテスタントの息子殺しの事件は、ヴォルテールの有名な仲裁を喚起する事態となった。車裂きの刑の判決を受けたカラスは刑死し、3年後に彼の無実が証明された。 トゥールーズは大きな衝突を経験することなくフランス革命を迎えた。一部で城館での略奪があったほかは、それまで都市の命脈を保ってきた高等法院の権力が尊重された。若干の対立が生じたのは1790年から1791年にかけて州制と高等法院の廃止および教会の改革が宣言された際である。トゥールーズは州都の地位を奪われ、オート=ガロンヌ県の県都となった。ジャコバン派はトゥールーズを連邦主義者の反乱から遠ざけることに成功した(これはフランス西部・南東部の合流回避に決定的なものだった)。共和派は、1799年には同様に王党派の蜂起を失敗に追い込んでいる。
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