封建時代の近衛家の所領
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平安時代末期、摂関家領のほとんどを惣領した藤原忠通は、その大部分を長子の近衛基実に譲り(一部は藤原聖子に譲られた)、彼の没後には近衛基通が継承し、近衛家領が成立する。 鎌倉時代中期の1253年(建長5年)10月に書かれた『近衛家所領目録』には大番領・散所等を除いて153か所の所領が掲載されており、内訳は私的な別相伝地が14か所、本所として一定の得分を徴収する所領が50か所、進止権を保留しつつ縁の有る寺社に寄進した所領が5か所、基本的な年貢徴収権を寺社に寄進した所領4か所、本所として荘務を進退する所領60か所、在地領主を請所として一定の得分権をもつ所領20か所となっている。ただし私的な別相伝地14か所のうち7か所は鷹司家が近衛家から分家した際に鷹司家領となった。 南北朝時代には近衛家も分裂し、近衛家平流と近衛経平流の2流が家領をめぐって対立したが、主要な領地は経平流の近衛基嗣に伝領されたと見られる。基嗣は1336年(延元1年・建武3年)11月に北朝から摂津国榎並庄以下25か所の所領を安堵されているが、これが当時の近衛家領の全てであったとは言い難い。 戦国時代前期の1478年(文明10年)から1505年(永正2年)間の『近衛家雑事要録』によれば荘園解体期のこの時期でも近衛家領は40か所前後の当知行の所領を維持していたが、戦乱の中で衰退は避けられず、1524年(大永4年)になると不知行の所領が当知行の所領を数倍上回る状態に陥った。 安土桃山時代に織田信長や豊臣秀吉の天下統一下で石高知行制が成立した後には近衛家も織田氏や豊臣氏から知行地を与えられ、江戸時代に入った後の1601年(慶長6年)には徳川氏より1795石余の知行を与えられ、その後2862石余になった。
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