封建時代の所領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 10:09 UTC 版)
摂関家領は、鎌倉時代初期に当時の九条兼実と近衛基通の政治的対立も絡んで九条家と近衛家の間で分立した。九条家領の中心になったのは兼実の妹皇嘉門院聖子が1180年(治承4年)に兼実の子良通に譲った所領であり、最勝金剛院領11個所、九条領34個所、近江国寄人、和泉国、摂津国、近江国の大番舎人などがある。 1204年(元久1年)に兼実は惣処分状を作成して所領の保全を図り、総計60か所に及ぶ荘園が記載されている。 1250年(建長2年)に兼実の孫九条道家が所領の確保のために作成した惣処分状では、その総計は112個所に及んでいる。この際に一条実経に譲与された所領は、のちに一条家領の基礎となり、九条忠家に譲与された所領は、のちに女子一期分を吸収して九条家領の中心となった。 しかし鎌倉時代末から南北朝時代の動乱の中で九条家領は徐々に衰退していき、1396年(応永3年)時にはわずか16個所が当知行として残っているにすぎなかった。戦国時代末期の家領目録では21か所を載せているものの、それらはすでに形骸化したものだった。 安土桃山時代に織田信長や豊臣秀吉の天下統一下で石高知行制が成立した後には九条家も織田氏や豊臣氏から知行地を与えられ、江戸時代に入ると徳川氏から与えられた。江戸時代の所領ははじめ2000石、のちに3000石だった。
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