鎌倉幕府の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:22 UTC 版)
旧勢力に平氏政権を排除する力(軍事力)はなく、その力を持っていたのは武士層であった。当初、東国や北陸で勃興した反平氏勢力は平氏追討を建前として掲げてはいたが、本音では自らの権利の確保、そして中央政府からの一定範囲での独立を真の目的としていた。旧勢力は平氏打倒という目的のためには実際に追討に携わる関東政権に依存しなければならず、寿永二年十月宣旨の発給といった大幅な権限委譲の道を開いてしまう。 その結果として鎌倉幕府の成立がもたらされる。草創期の鎌倉幕府は東国の支配権を有するのみだったが、それは当時の幕府を構成する武士たちにとって十分満足できる結果だったはずである。 創成期の鎌倉幕府と既存の朝廷は多くの軋轢を抱えながらも荘園公領制の維持という点では利害が一致しており、建久元年(1190年)の頼朝上洛により鎌倉幕府と朝廷の協調体制が確認された。鎌倉幕府と朝廷が全面衝突するのは、それから約30年後の承久の乱である。
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