鎌倉幕府と元王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 12:33 UTC 版)
平氏・奥州藤原氏が滅亡、後白河法皇が死去した後、源頼朝は征夷大将軍に就任して鎌倉幕府を開く。御家人は京都守護や鎌倉番役を務めることによって鎌倉殿に奉公をする。それに対して御家人は鎌倉将軍から御恩を授かるといった主従関係があった。一方で、西日本を支配する朝廷と東日本を支配する鎌倉幕府が対立するという公武二元支配の構造によって、守護・地頭と国司・荘園領主の対立が浮き彫りになった。頼朝の死後は北条氏が台頭して、執権政治が始まる。1221年の承久の乱によって執権の補佐役である連署が設置され、京都には六波羅探題が設置された。 13世紀後半、モンゴル帝国は高麗を通して日本に服属を求め、使者を6回送るが朝廷はこれを黙視する。1271年にクビライ・カアンは大都に遷都して元を建てると北条時宗は異国警固番役を設置して元の襲来に備えた。1274年、元は高麗との連合軍を形成して日本に侵攻(文永の役)。元・高麗連合軍は日本軍の激しい抵抗を受けて撤退を余儀なくされる。日本側は蒙古再来に備え、九州に防塁を築き防衛力を強化すると同時に、逆に大陸への侵攻を計画したが、この計画は途中で頓挫した(第一次高麗征伐計画)。 1279年に元は南宋を滅ぼし、華北の漢人・華南の南人とモンゴル民族の差別化を図った。そして、1281年に元は高麗・旧南宋軍と共に連合軍を組んで日本の再来襲を試みるが、 志賀島の戦いや 壱岐島の戦いで日本軍に撃退され、さらに鷹島沖海戦を経たところに台風によって大損害を受け、日本軍によって掃討され壊滅し( 御厨海上合戦・鷹島掃蕩戦 、弘安の役も再び失敗に終わる。大勝した鎌倉幕府は、直ちに大陸への逆侵攻を計画したが、この計画も実行されなかった(第二次高麗征伐計画)。 こうした二度に渡る元寇を受けて鎌倉幕府は1293年に鎮西奉行を九州に設置して、西日本における統制力の強化に乗り出した。一方で、元寇で軍役に就いた御家人への十分な恩賞給与がなされなかったため、御家人たちは貨幣経済が発達していた中で戦費に窮迫して借金に苦しむようになった。そこで鎌倉幕府は1297年に永仁の徳政令を発布して御家人の所領の質入や売却の停止を促したため、結局御家人の救済には至らず御家人の鎌倉幕府に対する不満は高まるばかりであった。 クビライ・カアンは日本侵攻を試みて政治的な緊張を孕みつつも、民間の経済交流は認めていた(日元貿易)。それでも日本の大陸侵攻を恐れるあまり日本の商人と元の官吏との間で傷害事件も発生し、それが後の倭寇の出現の一要因にもなった。鎌倉時代後期には寺社造営費を獲得するため、鎌倉幕府の公認のもと寺社造営料唐船が派遣された。北条時宗の死去で権力を握た得宗は、武士層が信仰した禅宗を保護したため、民間の渡来僧は貿易船に便乗して来日した。また、朝廷内では後嵯峨天皇の皇位継承と荘園の相続を巡って持明院統と大覚寺統の両統迭立で紛糾が続いていたが、大覚寺統の後醍醐天皇が即位して討幕運動が始まるも失敗、代わって武士の足利尊氏や新田義貞によって鎌倉幕府は1333年に滅亡する。
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