鷹島沖海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
7月27日、鷹島沖に停泊した元軍艦船隊に対して、集結した日本軍の軍船が攻撃を仕掛けて海戦となった。戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間続き、夜明けとともに日本軍は引き揚げていった。 この鷹島沖海戦については日本側に史料は残っておらず、戦闘の詳細については詳らかではない。元軍はこれまでの戦闘により招討使・クドゥハス(忽都哈思)が戦死するなどの損害を出していた。そのためか、元軍は合流して計画通り大宰府目指して進撃しようとしていたものの、九州本土への上陸を開始することを躊躇して鷹島で進軍を停止した。また『張氏墓誌銘』によると、鷹島は潮の満ち引きが激しく軍船が進むことができない状況だったという。鷹島に留まった元軍は、鷹島に駐兵して土城を築くなどして塁を築いて日本軍の鷹島上陸に備えた。また、元軍艦船隊は船を縛って砦と成し、これを池州総把・マハマド(馬馬)に守備させた。 一方、日本側は六波羅探題から派遣された後の引付衆・宇都宮貞綱率いる60,000余騎ともいわれる大軍が北九州の戦場に向けて進撃中であった。なお、この軍勢の先陣が中国地方の長府に到着した頃には、元軍は壊滅していたため戦闘には間に合わなかった。 さらに幕府は、同年6月28日には九州および中国地方の因幡、伯耆、出雲、石見の4か国における、幕府の権限の直接及ばない荘園領主が治める荘園領の年貢を兵粮米として徴収することを朝廷に申し入れ、さらなる戦時動員体制を敷いた。
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