鷹島掃蕩戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
御厨海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に鷹島に籠る元軍10余万と鷹島に残る元軍の軍船の殲滅を目指した。一方、台風の後、鷹島には日本軍の襲来に備えて塁を築いて防備を固めた元軍の兵士10余万が籠っていたが、 台風の襲来で既に大損害を被っていたため諸将らは、軍議を開き最終的に撤退に決する。諸将は損傷していない船から兵卒を無理矢理下ろすと、乗船して兵卒を見捨て本国へと逃走した 、その後鷹島では管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退することにした。 閏7月7日、日本軍は鷹島への総攻撃を開始。 文永の役でも活躍した豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)・都甲惟遠父子らの手勢は鷹島の東浜から上陸し、東浜で元軍と戦闘状態に入り奮戦した。上陸した日本軍と元軍とで鷹島の棟原(ふなばる)でも戦闘があり、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門は戦傷を受けながらも、元兵を2人生け捕るなどした。また、鷹島陸上の戦闘では、西牟田永家や薩摩の御家人・島津長久、比志島時範らも奮戦し活躍した。 一方、海上でも残存する元軍の軍船と日本軍とで戦闘があり、肥前の御家人・福田兼重らが元軍の軍船を焼き払った。 これら福田兼重・都甲惟親父子ら日本軍による鷹島総攻撃により10余万の元軍は壊滅し、日本軍は20,000〜30,000人の元の兵士を捕虜とした。現在においても鷹島掃蕩戦の激しさを物語るものとして、鷹島には首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜などの地名が代々伝わっている。 高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、鷹島掃蕩戦後の情景を「悲しいかな、10万の江南人。孤島(鷹島)に拠って赤身で立ちつくす。今や(鷹島掃蕩戦で死んだ)怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって死んだ魂が泣く」 と漢詩に詠んでいる。一方で郭預は、兵卒を見捨てた将校については「当時の将軍がもし生きて帰るなら、これを思えば、憂鬱が増すことを無くすことはできないだろう」 とし、いにしえの楚の項羽が漢の劉邦に敗戦した際、帰還することを恥じて烏江で自害したことを例に「悲壮かな、万古の英雄(項羽)は鳥江にて、また東方に帰還することを恥じて功業を捨つ」 と詠み、項羽と比較して逃げ帰った将校らを非難している。 『元史』によると、「10万の衆(鷹島に置き去りにされた兵士)、還ることの得る者、三人のみ」とあり、後に元に帰還できた者は、捕虜となっていた旧南宋人の兵卒・于閶と莫青、呉万五の3人のみであったという。他方、『高麗史』では、鷹島に取り残された江南軍の管軍把総・沈聡ら十一人が高麗に逃げ帰っていることが確認できる。 南宋遺臣の鄭思肖は、日本に向けて出航した元軍が鷹島の戦いで壊滅するまでの様子を以下のように詠んでいる。 「辛巳6月の半ば、元賊は四明より海に出る。大舩7千隻、7月半ば頃、倭国の白骨山(鷹島)に至る。土城を築き、駐兵して対塁する。晦日(30日)に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃(蒙古)軍は半ば海に没し、舩はわずか400餘隻のみ廻る。20万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。山の上に素より居る人なく、ただ巨蛇が多いのみ。伝えるところによれば、唐の東征軍士はみなこの山に隕命したという。ゆえに白骨山という。または枯髏山ともいう」 戦闘はこの鷹島掃蕩戦をもって終了し、弘安の役は日本軍の勝利で幕を閉じた。 鷹島掃蕩戦の史跡・文化財 少弐景資像長崎県松浦市鷹島町阿翁免 鷹島の中川激戦場この一帯は棟原(ふなばる)、中川原と呼ばれ、激戦地となったと伝承される。この石碑の付近で鷹島掃蕩戦により捕虜となった多くの元兵が殺害された場所であることから「首除(くびのき)」という地名が伝わっている。長崎県松浦市鷹島町三里免 龍面庵(伝・少弐景資本陣跡)鷹島掃蕩戦の際に日本軍の司令官・少弐景資が本陣を構えたと伝承される地。長崎県松浦市鷹島町阿翁免 刀の元の六地蔵刀の元は鷹島掃蕩戦で捕虜となった元兵を斬首した地と伝承される。刀の元の六地蔵は「天正十三年(1585年)十月廿三日」と刻まれており、安土桃山時代に建立されたことが窺える。長崎県松浦市鷹島町中通免 供養の元この付近は打ち取られた元兵の首を吊るした地と伝承される。供養塔には「享保十七年(1732年)四月十五日」・「南無阿弥陀仏」と刻まれ、江戸時代に元寇の犠牲者を弔うために建立された供養塔とされる。長崎県松浦市鷹島町中通免 銅像如来坐像高さ77cm弘安の役における高麗軍の物という伝承のある仏像。この仏像は高麗前期の作とみられるが、対馬や壱岐にある高麗仏とは作風が異なっている。長崎県松浦市鷹島町原免 伝・対馬小太郎の墓小太郎は文永の役における元軍の対馬侵攻に対して、伝令として博多に元軍の襲来を伝えたとされる人物。その墓と言い伝えられている。小太郎は鷹島掃蕩戦に参加し負傷し「我が屍を埋るに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と言い残すと息を引き取ったという伝承が伝わっている。長崎県松浦市鷹島町里免 伝・兵衛次郎(ひょうえじろう)の墓兵衛次郎は文永の役における元軍の対馬侵攻に対して、小太郎とともに伝令として博多に元軍の襲来を伝えたとされる人物。弘安の役の鷹島掃蕩戦に参加し戦死。その墓と言い伝えられている。長崎県松浦市鷹島町神崎免 元寇記念之碑1916年(大正5年)に寄付により鷹島に建立。毎年8月30日に「元寇記念祭」が催されている。長崎県松浦市鷹島町阿翁免
※この「鷹島掃蕩戦」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「鷹島掃蕩戦」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。
- 鷹島掃蕩戦のページへのリンク