西牟田永家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/13 15:38 UTC 版)
西牟田 永家(にしむた ながいえ、生没年不詳)は、鎌倉時代の武将、御家人。通称は弥次郎。筑後の豪族・西牟田氏当主。
生涯
源頼朝の意向で全国に惣追捕使が置かれた翌年の1186年(文治2年)、永家の祖父・家綱が「右大将家之命」によって禁裏東門を守衛したことが「佐賀藩西牟田系図」に見え、その「証文」が江戸時代まで現存していたことが記されていることから、西牟田氏は鎌倉幕府の御家人であったと考えられる。
永家は、弘安の役の際には他の九州御家人らとともに、1276年(建治2年)3月より博多で陣地構築を行い[1]、1281年(弘安4年)7月には松浦湾の鷹島に駐留する10万の元軍と戦い、その戦功をもって肥前・神埼の荘園数か所を恩賞として賜っている[2][3]。なお、永家は鷹島で戦死した可能性も指摘されており、鷹島の龍面庵には、西牟田弥次郎(「弥五郎」とも読める[4])と名前を刻んだ五輪塔状の墓が現存している。同地の掲示柱には「壱岐の人西牟田弥次郎永家之墓」と表示されているが、現在壱岐に西牟田姓の住民はいないため、「筑後」と「壱岐」が誤られている可能性がある。
西牟田氏の菩提寺である寛元寺には、1307年(徳治2年)7月7日・同年7月10日・1308年(徳治3年)3月10日付の寄進状が残されている(署名は永家の僧名である沙彌浄西)[5]。
脚注
参考文献
- 佐賀藩「西牟田氏系図」
- 矢野一貞『筑後将士軍談』中巻(名著出版)
- 馬渡俊継『九州治乱記』(青潮社)
- 長崎県松浦市教育委員会『松浦市の文化財』(長崎県松浦市教育委員会文化財課)
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